2017-07-26から1日間の記事一覧

小説:白い珊瑚 目次

第一章 セラピーの部屋その一 第二章 セラピーの部屋 その二 第三章 セラピーの部屋 その三 第四章 セラピーの部屋 その四 第五章 セラピーの部屋 その五 第六章 セラピーの部屋 その六 第七章 セラピーの部屋 その七 第八章 セラピーの部屋 その八 解題 後…

第一章

楓は自分が突発的に死ぬのではないかとどこか他人事のように思いながら生きていた。一線を超えるか超えないかの違いは大きいものではないように思われた。突如としてやってくる絶望の直後に死への希望はやってきた。いよいよ生きていけなくなったら死ねばい…

セラピーの部屋 その一

「こんにちは。始めまして」 「始めまして。及川と言います」 セラピーの部屋に入ると入り口右側に机がある。机の上にはノート、そして電源が入っているかいないか定かではないICレコーダーが置いてあった。 「どうぞこちらにおかけください」 セラピストは…

第二章

和也は楓に話しかけもせず、ただ楓の後姿を追った。和也は、やはり賢かった。楓に対して肉体的接触も物理的接触ももたなかったのだ。楓は、和也もさすがに転職活動に入るだろうし、ストーク行為もしばらくしたら収束するだろうと思っていたが、それは甘かっ…

セラピーの部屋 その二

「そういえば、日本語には感情を表す単語は十分にありますか?」 「はい。まあまあ多いと思います。なので、対応する単語があまりにもなくて困るということはまずありません」 「外国語で自分の細やかな気持ちについて話すのは、大変ではないですか?」 「確…

第三章

「今日はランチどこへ行こうか?」 同じ課の二歳年下の樹里、同期の英恵とは、週に何度か一緒にランチをする仲だった。三人は会社近くのイタリアンへ行くことにした。楓は職場の入り口のドアを開け、樹里と英恵はその後に続いた。 「最近は彼が前ほど連絡を…

セラピーの部屋 その三

「私は自己評価がとても低いです。人生の中でいつの間にか自信(Selbstbewusstsein)を失ってしまいました」 「自信を失ったとおっしゃいましたが、何かきっかけはありましたか? それとも、もともと小さい時から自信がなかったですか?」 「小さい頃は、健全…

第四章

「はいはい、ちょっと待ってね。いまあげるからね」 そう言って楓はケージを開けて、ケージをガジガジ齧りだした二匹のデグーにまずは干し草を与えた。白と灰色のブチの方はミスティー、茶色一色の方はマティーニという。楓は二匹を買った時、げっ歯類の繁殖…

セラピーの部屋 その四

セラピーの部屋に入るといつもベルガモットの香りがする。セラピーも回数を重ねるごとに、楓は部屋に案内されてベルガモットの匂いを嗅ぐだけでリラックスするようになった。その香りも、セラピーを終えて部屋を出る時には体が慣らされてしまい、もう意識さ…

第五章

「これでピルみたいに飲み忘れることもなく、確実に避妊できます」 楓は婦人科で小さな棒状のチップを注射器で左上腕の内側に埋め込んでもらった。チップによって妊娠状態を作り出すので、生理も来なくなるという説明を受けた。チップは三年間有効で、微量の…

セラピーの部屋 その五

「前回のセラピーから今日まで、どう過ごしていましたか?」 「そうですねえ。ついこの間、久しぶりに両親とスカイプで直接話しました。私はたまに両親に友達の話をするのですが、その中のひとりが気に入らなかったみたいで、距離を取った方がいいんじゃない…

第六章

楓は怒りの感情を持てなかった。特に親しい間柄の人に対しては、怒りを全く感じられず、ただひたすら深い悲しみを味わった。楓は、人がどうしたら怒れるのか、分からなかった。だから、怒りを表明している人がいると、いつも、私もこんな風に怒れたら、あの…

セラピーの部屋 その六

「昨日、私はすごく機嫌が悪くなったんです」 「一体どうしましたか?」 「彼が仕事帰りに女友達と一緒に飲みに出かけて、その時間がずれ込んで私とのスカイプの約束の時間に三十分くらい間に合わなかったんです。私はパソコンの前で待ちぼうけを食らいまし…

第七章

普段、楓の心の動きは鈍かった。何かを受け取る感性は人一倍あっても、慢性的に心が疲れているために、心が揺り動かされることは少なかった。いや、心が動いた後の虚無的な疲労が怖くて、自らそういうものの中に飛び込むことを極力控えていた。それは、半ば…

セラピーの部屋 その七

「前回あなたが注射器を注文した話に、私がとても強烈(intensiv)に反応したので、驚かれたのではないかと思うのですが……」 「その件に関して、私はあれから考えていました。私たちの間にある温度差が一体何なのか。たぶん、私は、死なないなら、いろんな情報…

第八章

楓は希望通りミュンヘンに住むことになった。 ミュンヘンから列車で、友達が個展を開くというグムンデンの陶器市を訪れた。グムンデンは、水の匂いがする街だった。トラウエン・ゼー沿いの大きな通り、シャルンシュタイナー・シュトラーセを歩き、大通りにつ…