セラピーの部屋 その七

「前回あなたが注射器を注文した話に、私がとても強烈(intensiv)に反応したので、驚かれたのではないかと思うのですが……」

「その件に関して、私はあれから考えていました。私たちの間にある温度差が一体何なのか。たぶん、私は、死なないなら、いろんな情報をネットで調べようが、三十ミリリットル血を抜こうが、同じことだと考えているんです。死という帰結に至っていないなら、その行為は大したことのない行為なんです。それに対して、あなたにとって、調べ、計画し、それに集中して一定程度の時間をかけるということが、すでに具体的な一歩を進んだという意味を持っている。そういう判断だったから、私たちの間には温度差があったんですね」

「そうです。私もそう思います。あなた実際のところどう考えているかは分からないので、そもそも私はあなたの発する言葉をそのまま受け止めるしかありませんから」

 

「私は今日、とても怠い(schlapp)です」

「どうしたんですか?」

「朝、いつもの時間に起きれませんでした。ここへ来るシュトラーセンバーンの中でも、体が疲れていて真っすぐに座っていられませんでした。疲れていて、何も考えられません」

「疲労感には何らかの機能(Funktion)があると思いますが、疲れることであなたの思考は何を回避しているのでしょうか?疲れているだけではなくて、悲しそうに見えますね」

楓の目にはじわっと涙が溢れてきた。

「そうです。悲しいです。どうしてか分かりません。でもここに来たら悲しみが浮かび上がってきました(auftauchen)」

「どうして、悲しくなったと思いますか?」

「思いつくことと言えば、昨日、私と彼の共通の友人とスカイプをしたんです。友達に、彼からのプロポーズ待ちなの?と聞かれました。私は、全く待っていないと答え、何も期待せず、待ってもいないことに気付きました。少なくとも、私はファウストに出てくるグレートヒェンが宝石をもらった時のような無邪気な気持ちにはなれないのです。それと、彼女は全く悪気なく、彼の前の家の話をしたんです。彼女は、一度だけ彼の前の家に遊びに来ているんです。『そういえば、前の引っ越しの時、直樹さんはいくつかの家具を処分していたよね』という話をしていました。それで、以前のことをいろいろ思い出してしまいました」

「プロポーズを待っていない自分を再認識して、ショックだったでしょうね」

「はい、ものすごく。もう待ちたくないんです。私は、待つことに疲れました。今、こうやって話しながら、ようやく分かりました。以前、彼が連絡なしに友達と飲みに行って私が待ちぼうけを食わされた時に、物凄い拒否反応を示したことを話しましたよね」

「ええ。何度かそういう経験があったと言っていましたね。疲労感(Müedigkeit)を覚えるとおっしゃっていましたが、疲れてしまうというのは体のひとつの反応で、何に対する反応かというと、これ以上、何かに対して考えない、思考停止しなくてはいけないというシグナルかもしれませんが、何か思いつくことはありますか?」

「それは、単に、私が彼からの連絡もないまま待たされるという事実を意味するだけではなかったと思います。単に彼が帰ってくるのを待つことを意味しているだけではなかったんです。待つ(Warten)というのは、私にとってとても象徴的(symbolisch)なんです。私は、いろいろなことを待たされました。家具についてだって、ひとつずつ新しくなるまで待たされました」

「新居に関しても、待たされていましたよね」

「そうです。そして何より、彼の前の関係がきちんと清算されるまで私は半年以上待たされました。もう、待たされるのは嫌なんです」

「彼の帰りを待つことと、これまでいろんなことをあなたが我慢し、待ったこと。この二つの関連性をあなた自身で結び付けられたのは、すごいと思います。なぜイライラし、拒絶したか、理解が深まっているんですね」

「はい。それに、私は一体どれだけ長いこと待たないといけないのか、という思いにもなりました。友人は彼の前の部屋について話しました。私は一体いつまで笑顔でその話を聞かないといけないんでしょう」

「その友人は背景の事情を知らないんですね。あなたにとっては新しい生活が始まっているのに、前の状況がたびたびどうしようもなく侵入してくるのですね」

「それも、だいぶ前の話です。あれからたくさん時間が経ちました。それなのに、私はちょっとしたことで、すぐにそこに引きずり戻されます。もう、嫌です。もう、待ちたくありません」

楓はそう言って涙を流した。

「待つ、というのはとても受動的(passiv)な行為です。待つこと以外に、あなたが能動的に何ができるかを考えていけるといいと思います。人には、消極的な部分と能動的な部分がありますから。あなたの中の能動的な部分はまだ……」

「まだ眠っています(schlafen)」

「眠っているというのは良い表現ですね。積極的な部分はすでにあなたの中に存在しています(es gibt)。だから、その部分をどうにかして目覚めさせてあげるのが大事です。あなたは、今日、怠いと言っていましたが、悲しみが怠さという形で表れてきたようですね」

「私は自分がこんな風に拒絶してしまうのは我儘なんじゃないかと思うことがあります。それと同時に、自分の中の能動的な部分を目覚めさせるのは、自立と繋がるように思います。でも、自立(Selbständigkeit)しているのと我儘(egoistisch)なのとの区別がどこにあるか全く分からないんです」

「自立というと、どういうことを思い浮かべますか?」

「何となく、『責任(Verantwortung)』と近い気がします。これに関して、ここまでは自分に責任があるけれど、ここから先は違うとか。どこまで責任を取るか明確にその線(Grenze)が分かっているのが自立というもののような気がします」

「それがはっきりしないために困る局面というのは具体的に何かありますか?」

「人の機嫌です。身近な人の機嫌にものすごく振り回されるんです。実際に、私が機嫌の悪さの原因(Grund)でなくても、つまり私に機嫌の悪さの責任がなくても、それを私のせいじゃないと突っぱねられない。それで気持ちが揺さぶられてしまいます。不安になって、人の顔色をずっとうかがい、最終的には自分が追いつめられるところまで行ってしまいます」

「そこの境界線がはっきりしたら、自分を守る(Schützen)ことにもつながりますね」

「ええ。その通りだと思います。私は、自分が我儘なんじゃないか、何かを望みすぎているんじゃないかといつも不安になります。自分が望むことに正当性があるかどうかをどうやって判別したらいいか、分からないです。実際、身近な人に機嫌よく過ごしてほしい、八つ当たりされたくない、自分自身を確保したいというのは望みすぎなのでしょうか?これは、自己評価の低さとも関係していると思います」

「誰だって八つ当たりはされたくないものですよ。あなたの中では、距離を取ることと連動して、自分を守るというのがキーワードになっているみたいですね」

「確かに、そうかもしれません。自分の精神的領域に入ってこられるのがすごく苦手なんです。でも、それをうまく止められなくて、結果、自分を守ることができないでいる気がします。

 いま、私は、さっきなぜ泣いたのかを考えているのですが、他にもうひとつ思いつくことがあります。私は、彼に対してもちろん様々な感情を抱いています。ポジティブなものからネガティブなものまで。ネガティブな感情には憎しみ(Hassen)も入っているような気がするんです。人は、私に対して、『あなたは嫉妬しているのよ』と言うかもしれません。でも、そうじゃないんです。私は彼のことを憎んでもいるのではないかと思うのです」

「それに気づき、人に言うのは、とても勇気のいることだと思います。憎しみというのはとても強い感情ですね。そして、憎悪というのは、愛と真逆の概念ですね。あなたの中では、その二つが相反しながらも同居しているということでしょうか」

「私はいま、日本から距離を置いています。それが上手く作用しているような気がします」

「あなたは、憎しみが愛と正反対の言葉だと言った私の言葉に対して、何の反応もしませんでしたね」

「そうですね……。私にとって、愛とは感情ではなく、意志のようなものなのです。それは、時にマゾヒズム的でもあるように思います」

「あなたが、愛という概念を、意志、そしてマゾヒズムという言葉で特徴づけたのは、大変興味深いです」

「私は普段、Liebe(愛・恋愛)という言葉を使いません。何故なら、それらの言葉は私にはよく分からないものだからです。愛が感情ならば、その感情を感じられなくなったら、愛そのものも終わってしまいます。でも、それが意志ならば、感情のようないつの間にか消えてしまうものではなくなります」

「愛が意志ならば、それを人はコントロールすることができますし、コントロールできていることを自負できるかもしれませんね」

「はい。そして、それはとても理性的なもののような気がします。コントロールできるということに安心もします。ただ、それには負の側面があります。感情の変化を見落としがちになってしまうのです」

「あなたがマゾヒズム的と言ったのは?」

「まさに自分の感情の変化を無かったことにするのを意味します」

「さまざまなことを我慢し、苦しんでも自分の意志で関係を維持していますよね。あなたが、あなた自身を攻撃し、苛め抜くというのは、まさにマゾヒズム的ですね」

 

「まだ時間がありますが、ひとつ聞いてもいいですか?その腕はどうしました?注射器を使ったんですか?まるで、私に気付いてくれと言わんばかりに、特に傷跡を隠していないというような印象があるのですが……」

「ええ。まあ……」

「そのことについて話すのは、気まずいですか?」

「そうですね。前回、何もしないと約束したので気まずいです。

 私はこのセラピーを通して、自分を観察し、分析し、さまざまなことを言語化してきました。そして今、言語化できないものが自分の中に残っている感じがするんです。以前は、そんな核(Kern)があることに気付きもしませんでした。他にもつれているものがありすぎて。あなたは、いま私が言語化できていないことさえもいずれ言語化できると考えているのかもしれませんが、私は、言語の限界があって、表現できないものの核心(Kern)には、到達できないと考えています。それと、血が、結びついているのです。

 私は前回説明したように、注射器を注文した時は、もはやそうしなくてはいけないというような強迫観念のようなものを感じていました。でも、注射器を使ったときは、自分でも驚くほどそういう衝動(Drang)は感じず、まったく感情的ではありませんでした。むしろその逆で、無気力、無関心で、ひたすら冷静でした。空っぽ(leer)だったかもしれません。

 いろいろ試してみて、私は注射器の本体を使わず、注射針だけを使いました。注射針を肘の裏に刺すと、トクトクという鼓動に合わせて、少量ずつ、とぴゅっ、とぴゅっ、と血が出ました。私は血を計量カップに溜めました。そしてちょうど五十ミリリットルくらい溜まったところで針を抜きました。一滴ずつ溜まっていった液体だった血を改めて眺めてみたら、なんだかレバー状になっていました。カップをひっくり返したら、ぷるん、と血の塊が落ちました。手で持ち上げてみると、パンナコッタを手に乗せたような感触でした。生暖かったです。と言っても、想像していたような生暖かさよりは、むしろ人肌くらいと言った方がいいかもしれません。夏のちょっと涼しい日に屋外プールに入った後で、放尿をした時に体が感じる尿の暖かさほどではありませんでした。

 五十ミリリットルの血の塊は、まるで私の小さな心臓のようでした。私は自分の心臓を抉り出したような快感を覚えました。それは自分の心臓であり、宇宙のようでもありました。私は、自分自身の生命を手にしているように思いました。自分をコントロールできるという万能感さえ覚えました。そして、血の塊を自分の手で握りつぶしました。血の塊は指の間をすり抜け、そのまま洗面所に流れていきました」

「なぜ、あなたはそこまで自分自身に対して攻撃的になってしまうか、あなたの考察(Überlegung)はありますか?」

「自分でも分かりません。ただ、自分自身に対して、どうしても攻撃的になってしまう、というか、ならざるを得ないという感じがします。おそらく、他に選択肢がないんです」

「自分を傷つけることによって、ご自身の輪郭をはっきりさせたいとい感じでしょうか? 今回は境界線というテーマがあがりましたが、自分の内と外の境目があなたにとって明白ではないような印象を受けるのですが、その辺りはどのように考えていらっしゃいますか?」

「そうかもしれません。私は、一度、自分が二重になったような感覚に陥ったことがあります。幻聴が聞こえ、自分の声が頭の後ろから聞こえていました」

「その、もう一人の自分、別の自分というのは、あなた自身とは別の人格でしたか?」

「いいえ、同じ人格です。ジキルとハイドのような別人格ではありませんでした。ただ、もう一人の自分を、本来の自分はコントロールすることができませんでした?」

「コントロール不可能というのはどういった感じでしたか?」

「たとえば、人と話しているときに、相手が話しているのに割り込んでしまって、そういう自分を止めることができませんでした。そういう時は、もはや自分で自分を止めることができないので、むしろもう一人の自分を突き放して、好きなようにさせるしかありませんでした」

「幻聴が聞こえていたというのは? 最近はありますか?」

「いいえ、ありません。過去にそういう時期があったことは確かです」

 要するに、統一されているはずの自我が一度崩壊したのだと思います。そのため、常に、どこまでが自分なのかを確かめたいという強い欲求があるんです。その欲求を満たすために、自分自身に対して攻撃的になってしまうのだと思います」

「こうやってあなたと話し、自分のしたことを整理しても、私はまだ血を抜くという行為に対して何の感情もなければ、何の意見も持てません。

 私が飼っているペットは、引っ越しの時にストレスを感じたのか、腕の毛を抜いていました。犬だって猫だって猿だって、ストレスを感じたら腕や尻尾を齧ったり、毛を抜いたりします。人間だって、ストレスを感じた時に自傷行為をするのは、そんなにおかしなことではないように思うのですが」

「あなたは、生物学的に自傷行為の根拠づけをしていますが、動物と人間は、自由意志で何かを決断できるかどうかという点で違います。人間は、自由意志でそれをしないという選択をすることができるのではないでしょうか」

「そうかもしれません。でも、自由意志で止めることができるとおっしゃいますが、それは本当に自由意志なのでしょうか?私には、自由意志が発動される以前に、自傷行為は道徳(Moralität)や倫理(Ethik)によって、はなから、それが問いになる以前に禁止されているように思います。自由意志があるからといって、必ずしも自由意志で『行為をしない』という帰結を導くことはできないと思うのです。自由意志で、何かを『行為する』という選択も、同じ程度ありえるのではないでしょうか。そして、自由意志で『行為すること・しないこと』によって生じた結果も、価値的には同程度だと思います。どちらがより良い帰結で、どちらがより悪い帰結なのか、そこまで明白には判断できないのではないでしょうか」

「このセラピーでは、常にあなたにとってそれがどういう意味を持つかという点に立ち返りたいと思います。あなた自身に当てはめると、いかがですか?」

「私にとって、作為も不作為も、作為Aも作為Bも、同等の意味を持ちます。だから、自傷行為をするのも、しないのも、私にとっては同じことです」