第七章

 普段、楓の心の動きは鈍かった。何かを受け取る感性は人一倍あっても、慢性的に心が疲れているために、心が揺り動かされることは少なかった。いや、心が動いた後の虚無的な疲労が怖くて、自らそういうものの中に飛び込むことを極力控えていた。それは、半ば防衛本能のようなものだった。

 楓は以前、直樹を憎んでしまいそうになったら、その前に直樹の元を離れようと思っていた。しかし、今では楓は直樹のことを、いつか心の底から憎んでしまうのではないかと常に不安になり、憎んでしまう不安は以前より具体的なものになっていた。楓と直樹との間にどのようなことがあったのか、楓は具体的には誰にも語らなかった。楓はそれをひたすら澱のようにして心の底に溜めていった。心はくたびれ、濁っていき、ついには悲鳴を上げていた。それらのことをそもそも自分自身に対しても言語化することを楓の心はどこかで拒否していた。二人の関係は、マイナスをゼロにするところからスタートしていた。そして、そのプロセスはいつまで経っても尽きることがなかった。あの頃に戻ろう、あの頃に戻りたいという清々しかった時点が二人にはなかった。

 楓は、以前直樹から比較され続けたことに対する苦しみをしばらく時間が経ってから味わい、当然そういう反応があり得たような反応だけが遅れてやって来た。酷く不安になったのだ。そして、物が新しくなることによってのみ、自分の居場所ができるような強迫観に取りつかれていた。

 物が新しくなること。それは喜びや新しい生活への期待に満ちるものではなかった。楓は疲弊していた。しかし、直樹も直樹で物を手放すのに心を削り取るような思いをしていた。直樹は自分の持ち物を大事にする人だった。

 「今までいろんなことを妥協して、譲ってきたけど、僕の過去の思い出なんて、全部ごみなんだね。僕はいつか楓さんに吸い尽くされそうだよ。そうなったら、もうお終いだ」

そう言われても、楓の心は動かされることはなかった。そして、心が動かされない自身を恐れた。しかし、怖れると言っても、恐怖に身がすくむのではなく、ただ、客観的に、こういう時に罪悪感などの心の変化が何もないのはおかしなことだろうという観点からの、自身が揺り動かされることのない無感動な怖れだった。楓は、それなら何で、両親や同僚に紹介できないような人とずっと付き合っていたのか、自分がボディータッチされて嫌だと思うような人に自分の大事なものを触らせていたのか、いったい人と一緒に住むということの意味をどう考えているのか、なぜ、そういう人のそばに居続けた自分を顧みることなく、楓だけが悪いと責められないといけないのか、理解できなかった。直樹は以前、同棲生活の最後の一年くらいはセックスもしていなかったと言っていた。彼らのただれた関係は、楓と直樹の関係までも蝕んでいた。楓は、日常生活で手に触れるものは新しい物にしたかった。しかし、そのうちのあれやこれやは、例えば直樹が実は後輩からもらったものだったり、若い時になけなしのお金で買った物だったりした。そんなに大切にしていた物なら、何でそれを大事に思えない人に触らせてきたのか。楓は物を人にあげたり売ったりして直樹が身を削っていることを理解していた。楓は感謝しなくてはいけなかった。そして、これ以上何かを求めることは許されていなかった(dürfen nicht)。

 直樹は悔しそうに泣いていた。

「自分は得たものよりも失ったものの方が大きい」

それなら何故、楓を何度も直樹たちの部屋に招いたのか、それも前の彼女の荷物がきちんと整理されていない本棚などが散らかった状態の部屋に招いたのか、「仕方ないだろ」と言って楓の居場所を奪うようなことをしたのか、どうして引っ越しを手伝わせたのか。楓はひとつひとつのボタンの掛け違いが苦しかった。もし、「仕方ないだろ」と言わずに、「ごめんね」と言いながら抱きしめてもらえていたら、楓の居場所を奪うようなことをしなかったら、あの部屋の隅々まで未だに思い出せるくらい何度も部屋に招かれたりしていなければ、楓はここまで自分の居場所がないという思いに取りつかれることはなかった。楓にとって居場所とは、自分が安心できる場のことだった。安心をひとつずつ奪われた楓は不安定になり、しばしば容易にパニックに陥るようになった。

 直樹は仕事で忙しい時期になり、それと正比例するように次第に楓のことがたまに鬱陶しくなっていった。直樹は終電で帰ることが多くなっていて、土曜日も仕事をする日が増えていた。そんな時、たまに日曜日に二人でゆっくりしながら、その一週間で起きた出来事などを報告し合った。楓が友達と過ごしたことや趣味のこと、あるいは資格の勉強やミュンヘンでの転勤に備えたドイツ語の勉強をしていることについて話すと、決まって直樹は「時間があって良いね」と言った。たとえ楓が自由に使える時間でどれほど努力をしていても、あるいは単純に楽しかったことを分かち合いたくてもそう言われてしまうので、楓は次第に自分自身のことを語ることが少なくなっていった。楓は、直樹の忙しさを慮ることはできたが、それでもその言葉は楓には皮肉のように響いた。それゆえ、嬉しいことほど何気ないふりをし、慎重に直樹の耳に触れないようにした。隠しているのではなくて、聞かれていないから言っていないだけ、と自らに言い聞かせた。

 直樹は苛つき、楓の細かいことが気になり始めていた。しばしば直樹は、楓が気にもとめていないことを逐一指摘した。例えば、いつ電気を付けていつ消すか、楓には直樹のルールが分からなかった。ここの電気消そうよ、と直樹に言われ、何でこの前は電気を付けといてって言われたのに今日は消してと言われるのかできず、ただ直樹の苛つきだけを感知して、漠然と不安になりながら慌てて電気を消した。

 直樹は楓に対してイライラを隠さなかった。直樹の苛つきを受けて、楓は不安になった。直樹の声は、少し上ずって早口で、それは完全に聞く耳を持たず他の意見を寄せ付けない時の声だった。また、楓は直樹の話す言葉をうまく聴き取れなくなっていた。直樹は疲れており、楓にしっかり言葉を伝える意志をもって話しかけてはいなかった。ただ、独り言のようにもそもそと何かを口に出していた。楓は何度も聞き返さなくてはいけなかった。それは楓自身も、直樹も、苛立たせることになった。楓はうまく呼吸ができなくなり、涙が出た。楓には帰って安心できる場所が必要だった。いくら蛍光灯で明るく照らし出しても、何かに取り憑かれたように常に暗い雰囲気が年月をかけて染み付いてしまった実家は、もはや楓が帰りたい場所ではなかった。新しい部屋は心底安らげる場所ではなかった。楓の洋服の匂いは、たまに直樹の匂いになっていた。直樹の使っている洗剤の匂いは、ふとした拍子に、楓の匂いが部屋に染み付くのを妨げるかのように、楓自身の匂いを消した。直樹の匂いは、楓を守るのではなく、楓から何かを阻むようにして立ち昇っていた。楓の日々の生活の痕跡は部屋に染み付かなかった。楓は電車の一件で、直樹との関係を神経質すぎるほど遠慮しながら築くようになっていた。以前、楓は直樹と一緒にいる時、自由を感じていた。しかし、今は自由の中にも小さな不自由さを見出していた。

 人が誰かと一緒にいない理由は、たいがい何かが合わない、例えば性格が合わなかったり住む場所が離れている等具体的で本人にとって明らかだが、人が誰かと一緒にいる理由なんて所詮は大したものではない。楓は、楓が一緒にいるのが別の誰かでなくて何故直樹なのかを考えたが、その人である必要性・必然性がそこまであるようには思えなかった。確かに、直樹とだったら自由を感じたし、いくらでも一緒にいられた。けれど、何故一緒にいるのは直樹であって他の、あの彼ではないんだろう。楓が直樹と一緒にいる理由は曖昧模糊としていた。それで良いのかもしれない。楓は思った。個々の、結末が決まっていないという意味で開かれた(offen)人生は、偶然が偶然を呼んだ産物でしかない。あらゆる選択肢は等価なのだ。

 楓の嗅覚は何の警告も発しなかった。楓を直樹に繋ぎ止めるものは、嗅覚だけだった。