第六章

 楓は怒りの感情を持てなかった。特に親しい間柄の人に対しては、怒りを全く感じられず、ただひたすら深い悲しみを味わった。楓は、人がどうしたら怒れるのか、分からなかった。だから、怒りを表明している人がいると、いつも、私もこんな風に怒れたら、あの時こういう風に怒っていればよかった、などと思った。もっとこんな風に怒れたはずなのに、と悔しくなることもあった。楓は、怒りをいつの間にか押さえ付けて感じなくするか、あるいは悲しみに変えていた。本当の悲しみも、怒りから転じた悲しみも、すぐにその場で感じることができなかった。さらにはこの二種類の悲しみがどう違うのか、区別がつけられなかった。ただ、いずれにしてもそれらは時間を置いて、忘れた頃に後から(nachträglich)遅れて(verspätet)やってきた。

 楓は、自分の友達に直樹とのことを詳しくは言えなかった。友人たちが一様に心配するのが目に見えていたからだ。それに、直樹と会ったことがない状態で、楓が悩んでいることを知ったら、その人となりを知らないゆえに要らぬ心配をさせてしまうかもしれないと思っていた。友人たちの楓に対する心配は、その裏返しで直樹に対する非難になる恐れがある。楓はそういうものから直樹を守りたかった。

 直樹はある休日に楓を自分の部屋に初めて招待した。その部屋は最近別れたばかりの直樹の元彼女と直樹が一緒に住んでいた部屋だった。直樹の中では完全に終わった関係で、その人はもう部屋から出て行っていたが、いくつかの所持品はそのまま残っていた。本棚がぐちゃぐちゃで、床にも物が散乱していた。

「楓さん、ソファーに座って良いからね」

楓はソファーに近づいた時、ソファーの下に何か白い物が落ちていることに気付いた。ちらっと見たら、それは白いもこもこしたスリッパだった。直樹が履けないような小さいスリッパが片方、ソファーの下の奥の方にひっそり姿を隠していた。何かのはずみでソファーの下に滑り込んだその小さな白いスリッパは、やけに立体的に浮き上がって見え、身を隠しながらも自身の存在を主張しているようだった。スリッパは、その周りに違う流れの時間をまとっているように見えた。楓は、ソファーの下にスリッパが潜り込んでいると直樹に言うことができなかった。

 楓はソファーに腰かけ、直樹は楓の膝に頭を置いてソファーに寝そべっていた。直樹はおもむろに携帯を取り出し、フェイス・ブックのプライベートページを開いた。楓は何をするのかなと思いながら見ていると、直樹は友達の写真を見せてくれた。高校の友達、大学の友達、会社の同期、ドイツでの写真などである。写真を飛ばし飛ばし、それでも目につくものはサムネイルの状態から拡大しながら見せてくれたが、直樹が不自然に飛ばした写真があった。それは背の低い、髪が肩ぐらいまである女性とのツーショット写真だった。もう一枚は、明らかに女性が直樹の頬にキスをしているものだった。女性はどうひいき目に見てもチャーミングさがなく、醜く太っていて、神経を逆撫でられるような雰囲気で、生理的に、この人の肌には触れたくないと思わせるものがあった。直樹はこの二枚続きのサムネイル上の写真に言及することなく、飛ばした。楓は直観的にそれが最近まで付き合っていた人だと察した。

 写真を一通り見せ終わった後、直樹はふと、

「楓さんとは長い付き合いになるような気がするんだ」

と言った。直樹は照れくさそうに、無邪気な声で、そう言った。しかし、楓は何故この部屋の、この、彼らのソファーの上でそう言ったのだろうと思い、その言葉を、言葉の通りに受け取ることができなかった。しかも、写真が目に飛び込んできた直後に。楓は心を振り回されるのが辛かったので、予めあまりいろんなことに反応しないように心を制御していた。それでも、直樹の発言とその無邪気さと、発言の場があまりにも食い違っていて、疲弊しないように守っていた心が無理やり動かされ、そしてかえって無感動に陥った。このように、心の働きが鈍くなってしまうような出来事が楓と直樹の間には数多くあった。そういう時、楓はあまりに呆然としてしまい、怒ることも悲しむこともできなかった。しかし、その積み重ねは、楓の心を蝕んでいった。

 

 楓と直樹は、いつもは金、土と一泊二日をどちらかの家で過ごしていたが、次第に直樹の仕事が忙しくなるにつれて、実際は彼の部屋で過ごす方が多くなっていった。ある時、楓は一泊分のお泊りセットを持って直樹の部屋に泊まったのだが、日曜日も一緒に過ごすことになった。着替えが足りなかったので、楓は洋服を洗濯させてもらった。日曜の朝、楓は乾燥機から出てきた服に袖を通した。洋服からは自分の家で使っているのとは違う洗剤の匂いがした。自分の服から自分以外の匂いがしてくるのは、とても不思議だった。楓は直樹の匂いを嫌でないことに、改めて驚いた。息を吸うたびに鼻腔をくすぐる直樹の匂いは、楓の心をそっと包んだ。

 直樹は楓のことを大切にしていた。楓は、直樹が楓のことを全身で求めていることが分かっていた。しかし、いつも楓は誰かと比較されていると感じていた。

「こうやって一緒にひとつの傘に入って歩きたいと思えるだなんて楓さんだけだよ」

「今度、僕の同僚に紹介したいんだけど、初めてだからちょっと緊張するな。でも、楓さんのことは胸を張って紹介できるよ。いずれ僕の両親も紹介するからね。うちの親、初めて女の子を連れて行ったら驚くだろうなあ」

「こんなに肌が合うだなんて」

「楓さんとはセックスするだけじゃ足りない。それだけでは満たされないくらい楓さんを求めてしまうよ」

「楓さん、ちょっとビックリするくらいいつもいろんなことに気付いてくれるよね」

「ショップ店員みたいにきれいに服をたたむねって言われるんだ」

「ごみの分別にうるさいって言われるんだよね」

「エジプトへ行った時は、道路がすごいごちゃごちゃしてて運転もみんな雑で。でも、たまたま乗ったタクシーの乗り心地がすごい良かったんだよね。チップをあげ過ぎるのも良くないなあと思いはしたんだけど、その運転手には良い運転で頑張って欲しかったから、チップを弾んだんだ」

「楓さんとは、きちんとお金の話もできるから安心だよ」

「僕は誰かと食べ物をシェアするのはあまり好きじゃないんだけど、楓さんとだったらそれが自然にできて、すごい不思議」

「僕は今まで無理をしてたんじゃないかって、楓さんと一緒にいると思う」

「楓さんは背が高いよね。たまにふと、びっくりする」

 楓は直樹なりに大事にしてくれていると分かっていたが、しかし、自分だけを見てくれているのではなく、誰かとの比較で褒められたり大事にされたりしていると気付いていた。しかし、悪気のない比較なのだからと、その一つ一つを聞き流そうとした。楓はなるべく直樹が大事にしてくれる部分だけ見て、それ以外の部分は見ないように、感じないように努力した。次第に、努力しているということだけが意識から押し出され、楓は何も感じないようにしていたこと自体を忘れた。しかし、実際は、直樹が楓を称える様々な言葉が、楓には少しずつ打撃を与えていたようだった。

 こういう言葉の数々を口にしていた頃の直樹のマンションはちょうど改装中で、楓が遊びに行くといつも工事の音が腹を圧迫していた。工事のウィーン、ドドドドという音に直樹の言葉が絡みつき、少しずつ楓の心を削っていった。楓は直樹が発していた、比較が背後に隠されている言葉のひとつひとつを、二重の意味を持つ言葉を、知らず知らずのうちに内面化していった。一方で直樹は、出会って最初の頃はよく無意識のうちに楓を誰かと比べていたが、次第にそれも収まり、楓を誰とも比較せずに楓だけを見て受け止めるようになっていった。不幸なことに、ちょうどそれと入れ替わるようにして、楓には、直樹と何かをする時、常に、直樹がこれをするのは初めてなのだろうか、初めてでないとしたら昔の誰かとの記憶と比較されているのではないか、という疑念が頭をもたげ始めた。楓自身は、こういう思いがどこから湧き上がってくるのか見当もつかなかった。しかし、また比べられてしまうのではないか、という無意識を跳梁する恐怖は、何をするにも先取りして楓の心を切り苛んだ。そのため、楓の心は何かをする前に、すでにくたびれ果てていた。楓は自分の内部で連綿と続く苦しさに、漠然とした不安を覚えた。楓はその辛さを誰にも言えなかった。いや、そもそもはっきり分かってしまうと自分が壊れ、それと同時に直樹との関係も崩壊してしまうと直感していたのか、自分自身でも自覚的になれなかった。楓は精神の淵に追い詰められ、次第に自身の狂気を目の当たりにするようになった。しかし、それは常に時系列的には後から来るので、「狂気」に「整合性」を求めることができなかった。それは楓をますます苦しめることになった。精神の深淵は、果てしなく深かった。楓の苦い思いは、工事の音と結びついて心の奥深くに音もなく沈められた。

 

 直樹は新しい部屋を探し、そこに楓と一緒に移り住んだ。

 楓は直樹の引っ越しを最初から最後まで手伝った。がらんとした部屋の隅に残った最後の埃を、これは一体いつから積もったものなのだろうと思いながら掃除したのは楓だった。部屋を最後に出る時、楓の方から直樹に、

「部屋にいる時の写真を撮ってあげる」

と言った。楓は、自分の魂が軋む音を聞きながら、最後に直樹と部屋の記念撮影をしてあげた。楓は立ちくらみがした。

 新居は二人で住むには少し狭く、一人で住むには十分な大きさであった。楓の海外勤務が実現するとして、ゆくゆくは直樹が一人でも住め、楓もまた戻って来れるような部屋にした。二人は別々の部屋で離れて生活をしてたまに会うという暮らしを想像できなくなっていた。

 新しい生活は、しかし、瑞々しいものではなかった。楓は新居に、手を変え品を変え跳ね除けられていた。

 引っ越してから一か月も経たない頃、直樹は出張でベルギーへ行っていた。直樹のいない間、楓は気楽に一人でワインを飲んで酔っ払っていた。楽しく過ごしていたところに、切羽詰まった直樹から電話がかかってきた。「楓さん、前の部屋の大家が敷金をもともともらっていないって言うんだ。でも、返ってこないとおかしいんだ。かなりな額だから困ってる。悪いんだけど、前の部屋の契約書を探して、写真にとって送ってくれない?」

 楓は契約書に書かれている直樹が以前付き合っていた人の名前が嫌でも目に入ってくるのを、どうにか冗談めかして言った。

「ちょっとお、いろいろ見えちゃうんだけど」

直樹の答えは、

「だって、仕方ないじゃないか」

だった。楓は酔った頭を鈍器で殴られたようになった。ふらふらになりながら言われた通りに契約書を写真で撮り、メールに添付して直樹に送った。この件は結局大家の簡単な思い違いということですぐに解決した。

 すべてをやり遂げた後、楓はトイレで嘔吐した。

 

 

 新居には二人の持ち物がごった返していた。そして、直樹の持ち物の方が圧倒的に量が多かった。二人は順次、直樹が所持品として持ってきたものを新調した。珈琲マシーン、鍋、食卓、椅子、ミキサー、お皿、カトラリー、ガラスのコップ、コーヒーカップ、オレンジ絞り機、ビアグラス、ワイングラス、ベッド、布団の上掛け、枕、木べら、フライパン、ごみ箱、掃除機、洗濯機。本棚やタンスのような大きい物、すぐに買えないものはしばらくそのまま残った。この作業には切りがなかった。

 楓は飢え乾きながら新しい部屋に自分の場所を求めた。そして、ひたすら狂ったように、自分の痕跡を残そうとするかのように部屋の掃除をした。楓は、他人の人生を否定し、他人の痕跡を消すことでしか自分の居場所を作れなかった。そして、掃除という行為は、たとえそれが無限に続いたとしても、それによって痕跡を残すことは不可能だった。この、虚無しか生み出さない行為に、楓自身、芯まで冷え切った戦慄を覚えた。

 新しい物を買うたびに、それまでの直樹の生活がどれほど昔の関係に深く根付いていたのかを思い知るようだった。直樹はすべて終わっていて、楓と新しい生活を築き上げていると思っていたが、楓は違っていた。楓は、ようやくマイナスのものをゼロにするプロセスにいると感じていた。楓は、二人でどれほど新しい物を買っても、いつまで経っても新しい何かを二人で生み出しているような気持になれなかった。最初は、身の回りにあるものほとんど全てが直樹が昔使っていた物だったので、常に楓は居心地悪く感じていた。楓は、直樹の中に自分の場所がないように思えた。次第に家の中のいろんな物が新しくなっていくにつれて、日々の生活で自分の場所を焼けつくような思いをしながら求めることはなくなってきた。しかし、何かが新しくなる度に、自分の場所はなかったんだということを思い出した。家の中の物が新しくなり、古いものが捨てられたり売られたりする中で、常に自分の場所がなかった頃のことが呼び覚まされた。それゆえ、そのプロセスは純粋に楽しかったり嬉しかったりするものではなかった。楓は、そのような新しい生活を作る作業を純粋に楽しめるのを心底羨ましく思った。

 

 それから数か月して、直樹は前の関係に金銭的にも、荷物などに関してもようやく終止符を打てた。楓と直樹がお互いの部屋を行き来するようになってから実に半年以上経っていた。そのようなある日、直樹は「一度これまでのいろんな書類を整理する」と言った。二人は便利だからとシュレッダーを買っていた。楓は、数か月前に見た前の家の契約書も直樹はシュレッダーにかけるつもりだというのが分かっていた。楓はもう何も見たくなかった。そこで直樹に、

「直樹さんが書類の整理をしてる間、私は外でお茶でもしてくるからね」

と言い、自身は同じ空間にいたくないという意思表示をした。しかし、それは直樹には伝わっていなかったようだった。買ったばかりのシュレッダーを前にして

「試運転する」

と言い、直樹はいくつかの書類をシュレッダーにかけた。楓は、そうか、まだお試し中なんだと思い安心して一度寝室へ行き、携帯電話を取って再びリビングに戻ってきた。ドアを開けた楓がちょうど目にしたものは、せこせこした直樹の背中と、「賃貸借契約書」と書かれた紙がシュレッダーに吸い込まれるところだった。楓はドアを閉めて、そのまま外に出た。試運転だと言ったのに、嘘をつかれたような気がした。同じ空間にいたくなかったし、何も目にしたくないし、シュレッダーの音さえ耳にしたくなかった。それなのに、運悪く楓は以前の部屋の賃貸契約書がシュレッダーにかかる瞬間を目にしてしまった。それ以来、シュレッダーの音は楓に頭痛を引き起こすようになった。直樹も何となくそれを察知してか、以後、数回シュレッダーを使ってから、もうそれ以上はいちいち大きな音でがなり立てる機械を使わなくなった。直樹のワンテンポ遅れた思いやりを楓はありがたく思う反面、それで心が完全に癒えることはなかった。

 こうして、楓はやっと自分の場所を見つけてはそこから蹴り出されるという経験を何度もしてきた。その晩、全てを終わらせた直樹は、楓に「これから一緒に未来を見て行こう」というようなことを言ったが、楓は試運転と言ったのに嘘をつかれたというショックがあまりにも大きすぎて、そのほとんどが耳に入って来なかった。ピリオドを打った直樹に対し、一緒に前を向いて歩んでいく機会を楓は完全に失ってしまった。そこから二人の歩みには次第に歪みが出るようになっていった。同じスタートラインに立つことができなかった楓の心には、「ありがとう」をたくさん言い「ごめんね」とほとんど言わなかったその日の直樹の印象だけが強く心に残った。そして、直樹の不用意さで直接直樹によって傷付いてきたことも多いのに、何で「ごめんね」の方が「ありがとう」の回数より少ないんだろうと、眩暈を覚えながら立ち尽くした。そして、あの壮絶な引っ越しを経て、最後の最後もこれなのかという絶望から。眩暈は楓に、自身が肉体を持つ存在であることを思い出させた。直樹は楓を抱きしめ、うわ言のように何度も「ありがとう」と言った。直樹が普通の姿勢で立っていたため、楓は少し後ろに押されて、抱きしめられながら今にもバランスを崩しそうになっていた。どうにか踏みとどまりながら、楓は早く直樹の腕から解放されたいと願った。しかし、直樹が楓を抱きしめている時間は、長かった。

 楓は事あるごとにこの時に戻ってもう一度やり直したいと思ったが、それは叶わなかった。

 

 ある日、二人の住む部屋の上の階で内装工事が始まった。ドドドドドという音が心臓に直接響いた瞬間、楓は心がギュッと縮まり、鼓動が早くなってドクドクという血が流れる音が耳の奥に鳴り響いた。楓の呼吸は浅くなり、吸っても吸っても酸素が足りない感じがし、不吉な予感を秘めた動悸がした。このまま部屋にいると、倒れてしまいそうな気がして、楓は辛うじて、

「ちょっとその辺を散歩しに行かない?」

と言った。

 二人は支度をして玄関の扉を開けた。外は生ぬるく、湿り気のある白濁した匂いがした。空間が開けて、空気が薄くなる感じはなくなったが、部屋にいる時よりも工事の音がやたら大きく聞こえて、楓はすくみ上った。鰯雲が出ていて、雨が降りそうだった。いつもより速足でマンションを出て、やっと工事の音が追いつかない程度に遠くまで来た頃に、楓は歩みを緩めた。

 二人は並んで歩き、行きつけの純喫茶に入った。ドアを開けると珈琲の香ばしい香りが、マスターが吸うパイプのバニラの香りと混ざり、鼻孔にふわっと広がった。この喫茶店では、注文してから、白い状態の珈琲豆を焙煎し、挽いて珈琲を入れてくれる。そのため、とても薫りが高く、楓も直樹もここの珈琲の味をとても気に入っていたし、髪をオレンジに染めていつも野球帽をかぶり、アロハシャツにジーンズといったいでたちの年老いたマスターのことも好きだった。マスターが、旅行先で買ってきた色んな小物や思い思いの表情をした人形、花瓶や小物入れ、がらくたのようなものが店内には所狭しと並んでいて、お店の中の雰囲気も二人の好みにあっていた。二人は一時間ほど取り留めもない話をし、「またどうぞ」と言うマスターの声を背に喫茶店を後にした。お店のドアを開けると、チリンチリンとドアの上に取り付けてある鐘が鳴った。

 外は小雨になっていた。直樹だけが傘をさし、楓は直樹の傘に入って家に向かって歩き始めた。しばらくは楽しく話しながら歩いていたが、傘の柄を持つ直樹の手を何気なく見た時、この傘が以前の直樹の部屋の玄関にいつも置かれていた映像が楓には突然鮮やかに蘇ってきた。以前の部屋の玄関、靴箱、玄関わきの洗面所、キッチン、その先のリビング、玄関に傘とともに掛かっていた直樹の青いリュックサック、スリッパ、白と水色のイケヤの皿。色んなものがあまりに生き生きと目の前に再現され、楓は思わず立ち止まって硬く目を閉じた。

「楓さん、どうしたの?」

「ううん。何でもないよ。……ちょっと立ちくらみ」

楓は辛うじてそう言った。

「何か、道が狭いし二人並ぶと歩きずらいから自分の傘をさすね」

楓は直樹の傘から出た。自分の傘をさして歩くと楓の気分の悪さも幾分か落ち着いた。

 

 ある日、楓は直樹と一緒に電車に乗っていたら、車内で、過去の出来事が楓を襲った。楓は心の準備をする間もなく、過去の記憶をリアルに追体験し、当時は泣けなかったのに、今になって車内でぼろぼろと涙を流してしまった。

 楓が思い出したのは、直樹の誕生日のことだった。当時、まだ二人が付き合っていることを英恵や樹里に言っていない状態で、直樹の他の二人の友人と合わせて六人で食事をした。その日はたまたま直樹の誕生日の前日だった。その食事自体は誕生日会というわけではなく、ごく普通のものだった。楓は、日付が変わる時に直樹の誕生日を祝いたかった。皆が知らない状態で、二人で一緒に直樹の部屋へ帰るのは良くないと思い、楓は明日早いからと理由をつけて、他の皆よりも早く夜十時頃には食事会を後にした。直樹にも、楓が早めに出るから後で合流しようということは伝えていた。楓は東小金井駅の近くのカフェで直樹からの連絡を待った。さすがに三、四十分も待てば直樹も来てくれるだろうと思っていたが、直樹からはそれから一時間半後くらいにようやく連絡があった。その頃には、もう楓の待っていたカフェも閉店となってしまい、楓は店の外に追い出されてしまった。楓は仕方なく、また駅前に戻り、そこで立ったまま二十分弱直樹を待った。直樹を待つ間、楓は直樹が自分のことを顧みてくれていないような気がし、みすぼらしい気持ちになった。楓は、純粋に直樹が三十四の誕生日を迎える日に一緒にいたかったので、直樹が遅れて到着した時に笑顔で迎え、内緒で買っていたチョコレートケーキを直樹の部屋で一緒に食べた。

 楓はその時のことを思い出した。というのも、そのレストランの最寄りの駅だった四ツ谷駅で直樹と一緒に乗り換えたからだ。楓は当時のことを思い出した。待ちぼうけを食ったことだけでなく、当時、行きたくないと思いながらその気持ちを抑え込んで行かざるを得なかった直樹の部屋の空間、部屋の匂いまでもが蘇った。一つ一つのことは、それぞれどうにか我慢できたが、こうして急に記憶が呼び覚まされていろいろなことが一気に自分の内側で起こる時、楓はもはや耐えられなくなっていた。過去の出来事の意味が変わってしまうのだ。それは楓にとっても、間接的に直樹にとっても不幸なことだった。しかし、過去の意味を変えてくる力に抗うことは楓には不可能だった。過去は、当然そうであったかのように確固として楓の前に聳え立った。一つ一つの出来事の中を、その時その時で潜り抜けられたとしても、振り返った時にそれらが苦い軌跡を描き自分の足元に続いているのだ。楓はパニックになり、浅い呼吸を何度も繰り返しながら、直樹が安心させてくれる、守ってくれるに違いないと心の片隅で助けを求めた。楓には、帰れる場所がなかった。帰って安らげる場所、そういう空間がなかった。どこへ行ってもそこから弾き飛ばされたようになる楓は、自分が憩える場所を求めていた。そんな中、楓にとって、直樹は唯一の逃げ場だった。自分がこんな深い悲しみを背負っていたというのに驚きながら、いつ消えるとも分からないことに不安と焦りを覚えながら、涙を流した。しかし、直樹はこう言った。

「急に泣かれるだなんて、まるで僕が悪いみたいで、周りの人たちに責められている気がする。こっちの身にもなってよ」

 涙をコントロールできなくなっていた楓は、いよいよ顔を手で覆いながら、何度も何度もしゃくりあげた。息ができなかった。頭から血の気が引いて、目の前がちかちかした。この人の前で、もう泣くことは許されなくなってしまった。そう思って、何とか泣かないように奥歯を食いしばった。

 深い悲しみはいつも何の予兆もなくやってきて楓を襲った。防ぎようがなく、自分ではどうにもできなかった。

 この電車での一件以来、もう直樹の前では何があっても泣かない。楓はそう決めた。しかし、そう決めてから、楓はそれまでよりもちょっとしたことですぐに苦しくなった。誰かに助けを求めることが許されず、自分の中であらゆることを処理しなくてはいけないというプレッシャーが楓の苦しみを悪化させた。楓は、直樹にただひたすら「寂しい」としか言えなくなっていた。楓にとって、傷付く原因と慰めは源泉が同じだった。あらゆることは時が癒してくれると言ったのは一体誰なのだろうと楓は恨めしく思った。時が癒すことのないものもあり、かえって時が経つにつれて濃縮され、こんがらがり、それは体の中の骨にまで痛みを与えるようになる。楓は、胸が苦しくなり、誰もいない部屋で心拍数がどんどん加速していく時は、ベッドに身を投げ胎児のように丸くなり、「何で、何で」と呻きながらのたうち回った。一人で泣いている間、楓は恐ろしい孤独を味わった。楓は苦しくなった時に、しばしば自分の体に痛みを与えることで苦悩を軽減させようとした。右手で胸の辺りをばんばんと叩くのだ。それは、まるで自分に懲罰を与えるかのようだった。そうでもしないと、今のこの世界に自分という存在を見いだせなかった。その右手が打ちのめすものは自分の左胸という、明らかに抵抗のある、肉と骨の塊だった。左胸が赤くなるまで叩き、時には鎖骨下の肉の薄い部分を指でぎゅっぎゅっとつまみ、楓は自分の体の形を確かめた。楓は、自分の肉体を感じたかった。楓は自分の肉体を十分に重力が捉えてくれていないように感じ、もどかしくなった。楓は、自分の肉体を下へ下へと引きずり込んでくれる重力を感じたかった。それがどれだけ重くて、自分がそこから這い上がれないほどの力でもって引き摺り下ろされようとも、常に肉体が半ばふわふわと浮いたようにしか感じられないよりはましであるように思えた。楓の重力に対する憧れは、自分の肉体への負荷を求めた懲罰的な憧れであると同時に、楓を人間にする痛み以外のよすがでもあった。苦しさのあまり、心の底から絞り出される言葉は、「お願いだから誰か助けて」だった。楓は助けを求めた。今までそんなものを求めたこともなかったのに、楓には、誰かから物凄く同情されたい、そして理解されたい、という思いが湧きあがった。楓が自分で自分のことを助けるには限界が来ていた。誰かの手を借りなければ、もう這い上がれないというのは明白だった。直樹に、ほんの短い時間でいいから、大丈夫だよと抱きしめてもらいたかった。

 号泣の発作が落ち着いてから、楓はいつも死にたいと思った。楓は、観念的に死に近いところにいた。直樹は楓が毎日どれほど死にたいと思いながら生きているのか知らなかったし、そこに考えが及びもしなかった。楓は、発作が自分の手でどうにかなるものではなく、恐ろしいものが体を支配しているように感じた。自分を支配するものが恐ろしかったのは、それがコントロール不可能な故だけではない。楓は、幼い頃の自分の母親の突然泣き出すヒステリーと自分の状態が似ているように思えて仕方なかった。それは、楓をさらに心細くさせた。楓は、自分が母のようになるのが怖かった。楓は、自分の中にあの恐ろしい怪物を飼っていたことに、三十余年も気付かなかった。最も嫌っていたものを自らの内に見つけ、楓は、自分はこんな人間ではなかったはずなのに、と無力さを嘆きながら自分自身からも疎外され、いよいよ孤独を感じた。楓は泣いた後、風邪で熱が出た時のようにぼうっとした。何も考えられず、翌日まで熱風邪をひいた時のように体が芯から怠くなった。

 楓は、過去の感情の爆発を思い出すのも怖かった。そのような自分は、話しても何も伝わらない赤の他人のようだった。この前のような自分がまた出てきたらどうしようと思い、不安になった。楓は自分を失うことを恐れた。たった独りの時、不安はまだしも漠然としたもので済んでいた。ひたすら独りで泣けばよかったからだ。しかし、それを誰かから言われた瞬間に、またその感情が蘇ってきて、感情の波に引きずり込まれた。

「あの時は電車の中で大変だったよ。ちょっとトラウマになる」

直樹が部屋でぽろっと口に出した言葉で、楓は途端に絶望へと突き落とされた。楓は、自分が居場所だと思っていた所から放り出されたように思った。楓は、ちょっとトイレ、と言ってその場を後にし、直樹に声が聞こえないようにすすり泣いた。体は震え、動悸がし、吐き気が込み上げてきた。あんなふうになりたかった訳じゃないのに。楓自身、それが発作なのか自分の性格的なところから来ているものなのか、区別できなくなっていた。自分で区別できないし、例えある程度区別できたとしても、楓は医者ではないから、それを直樹に対して説得力を持って伝えることは不可能だった。苦しさを、誰かに、客観的に代弁してもらいたいと思った。楓はすでに、自分を激しく嫌悪し責めていたのに、更にそこに追い打ちをかけられ、あの時と同じ発作が再び楓を襲った。楓はなす術もなく打ちひしがれていた。体から血の気が引き、手が震え、それがいつまでもおさまらなかった。楓はどうにか泣いていることから注意を逸らし、自分を誤魔化すのに専念した。楓はささやかな心の平安を求めた。楓は、どうして二人が一緒にいるのか分からなくなっていた。辛くても辛いと言えず、涙を流して苦しんでいる自分を出すことを禁じられた。直樹が見ている楓の像と実際の楓は次第にずれてきていた。それもまた楓に苦痛を与えた。

 

 楓はトイレの中で左腹部に痛みを覚えた。それは、以前まで楓が感じていた排卵痛に非常によく似ていた。自分の体が排卵しているのはありえなかった。楓の体は、体がよく知っているものと似た痛みを創出していた。卵巣の痛みを感じただけで、楓は少しだけ安心した。