セラピーの部屋 その五

「前回のセラピーから今日まで、どう過ごしていましたか?」

「そうですねえ。ついこの間、久しぶりに両親とスカイプで直接話しました。私はたまに両親に友達の話をするのですが、その中のひとりが気に入らなかったみたいで、距離を取った方がいいんじゃないかって言われました。あまりにも私の領域に踏み込んできたので、ショックでした」

「それに対して、あなたはご両親に直接嫌だと言えましたか?」

「はい。すぐに。三十も過ぎて親にそんなことまで言われなくてはいけないなんて、情けないし残念だと言いました。でも、特に母は、私の苛立ちに気おされて、とまどい、おろおろした声になりました。心底傷付いたような声でした。母の声を聞き、私から急速に悲しさと苛立ちが引いていきました。その代り、罪悪感と自己嫌悪が掻き立てられたんです。まただ、と思いました。また罪悪感が焚きつけられ、その陰で自分の感情が掠め取られたと。私の感情は、母の声色ひとつで奪い取られてしまい、私の感情が彼女の感情になるのです」

「その友達とご両親は直接会ったことはありますか?なにが気に入らなかったのか、分かりますか?」

「両親は私の話で知っているだけで、彼女に直接会ったことはありません。なんか、彼女の贅沢なお金の使い方が気に食わなかったみたいです。それで母は、自分も昔そういう人との付き合いがあったけどだんだんストレスになった。楓本人には分からないかもしれないけど、周りから見たらそれが分かるし、私には分かる、いずれうまくいかなくなる、というようなことを言っていました」

「あなた自身は、友人との関係をどう思っていますか?」

「たしかに彼女は裕福ですが、私は別に馬鹿にされてもいないし、それに例えば高いレストランに誘われても断ったりしています。付き合う上での距離の保ち方は分かっているので、特に問題ないと思っています」

「そうですか。今日は心に思いつく文章をこの紙に書いて、ひとつずつの言葉のイメージに合う色のフェルトの生地を選んで、それを床に置いて、言葉の背後に隠されているものや、言葉と言葉の関係性をゆっくり見ていきましょう」

「文章ってなんでもいいんですか?」

「はい。長くても短くても良いですが、たくさん文章を書くのではなくて、ひとつ(ein Satz)だけ書いてみてください」

 

「書けました。『なぜ私(mein)の母は私(ich)から自立できないのか?』です」

「それでは、言葉のひとつひとつの印象にあうフェルト生地を選んでください。どの言葉から始めてもいいです」

「それじゃあ、まずは『母』にします。色は赤です。床のここに置きます」

「それではその赤いフェルトの生地に乗ってみて、心を静めて、どんなことを語りかけられるか言ってみてください」

「そうですねえ。『私は誰かの母親というとても大きくて、強い役割(Rolle)を担っています』」

「母というのは役割なのですね。次はどの言葉にしますか?」

「『私(mein)の』にします。色は『母』と似たような系統の色で、それよりも弱い色にしたいので、薄いピンクです。赤い『母』に向き合い、隙間がないようにして並べて置きます」

「それでは、あなたは『私(mein)の』になってください。私は『母』になります。どうですか?」

「『私はすごく狭苦しく感じます。全く心地よくなくて、心がざわざわします。母が近すぎて。でも、私にはここにいる以外の選択肢はありません』」

「『私はあなたがいるととても居心地が良くて、安心します。あなたは、もっと私に近づいてもいいくらいです』じゃあ、いったんそれぞれの役からおりましょうか。次はどの言葉にしますか?」

「『なぜ』にします。『なぜ』を濃い緑色にして、そうですね、『私(mein)の』『母』は中心にあるイメージなので、『なぜ』はその中心からちょっと離れたところに置きます」

「『なぜ』の上に立ってみて、どうですか?」

「『私はとてもニュートラルで、”私(mein)の””母”を遠くから見つめています』」

「次は?」

「最後のクエスチョン『?』にします。『?』は『なぜ』と似たような色の薄緑色にします。場所は、中心を隔てて『なぜ』の反対側で、『なぜ』と同じく中心にある『私(mein)の』『母』を離れたところから眺める位置にします」

「あなたは『なぜ』と『?』のどちらに立ちたいですか?」

「さっき『なぜ』だったので、今度は『?』が良いです」

「ではそうしましょう。何を感じますか?」

「さっきと同じです。『私は、”私(mein)の”と”母”をとても遠くに感じます』」

「『私も同じです。そして、私は”?”が遠くであっても、向き合って顔を見ることができて、すごくほっとします』それでは、役から降りましょうか」

「次は、二つ目の『私(ich)』にします。色は……そうですねえ。薄い紫にします。それで、位置は、『母』の下にします」

「では、二つ目の『私(ich)』に乗ってください。私は一つ目の『私(mein)の』に乗ります。どんな感じですか?」

「『私はすでに取り込まれている”私(mein)の”と同じように、”母”に取り込まれそうな感じがします。そこから逃れたいのですが。もうひとつの”私(mein)の”が”母”と結びつきすぎていて、しかも”なぜ”と”?”も私から遠いところにいるので、まるで味方がいないような気分です』」

「『私は”私(ich)”が近くにいるのに、”母”が間に挟まっていて、とても遠くに感じます。まだ”私(ich)”をかろうじて感じられているのですが、いつか”母”しか感じられなくなりそうで、怖いです』次はどうしますか?」

「次は、『から』にします。色は薄いブルーで、『私(mein)の』と『母』の間に重ねて置きます」

「分かりました。では、『から』の上に立ってみますか?」

「はい」

「私は『母』の上に立ってみます」

セラピストは、『母』の上にしゃがみ込み、いきなり『から』を自分から離れたところに置いて『私(mein)の』と二つ目の『私(ich)』とを『母』の方へ近づけた。そして、フェルトの生地にくっついているゴミを取り始めた。

「『私は、”から”がいると、すごく落ち着かなくなります。私の周りを”私(mein)の”と”私(ich)”で囲んで守ってもらいたいです』」

「『私は、自分が”私(mein)の”と”母”の二つをある程度の距離を保ちつつ、つなぎとめる役割があると思います。私自身はどちらにつくのでもない、いたって中立な存在だと思います。でも、”母”が近くにいると私はイライラしてしまうので、ちょっと離れたところに追いやられて、少しホッとしてもいます』」

「次の言葉は何にしますか?」

「『自立』にします。『自立』は、『から』と同じようにして『私(mein)の』と『母』の間に、二つにまたがるようにして置きます。色は、濃い青にします。『私には自分が”私(mein)の”と”母”をつなげる橋のような役割があります。橋であり、二つの間の境界でもあります。私から見ると、”母”はいつも”私(mein)の”の方を向いていて、私を突破してそちらへ行こうとしています』」

セラピストは再び『母』の上にしゃがみ、手や頭を神経質そうに掻きながら、再び『から』を遠くに置き、『自立』をどかした。

「次は『できる』にします。『できる』は濃い紫色で、『自立』の上に置きます」

「『できる』の上に立ってみてどうですか?私は『自立』の役をします」

「『私は、”自立”が私と同じくらい強い色で心強いです。ただ、今は”母”に阻まれていて、全く自由を感じません』」

「『私は、”できる”がいてくれて初めて自分の意味を見いだせる気がします』」

「最後は『ない』ですね。どこに置きますか?」

「『ない』は『母』の隣、『私の』の『母』を隔てた反対側に置きます。『ない』は濃い黄色にします」

「『ない』の上に立ってみて、どうですか?」

「『私は、”母”と同じくらい強い存在で、”母”を支えています』」

 

「役を離れて、ちょっと離れたところに座って布の布置全体をよく見てみてください。何か感じることはありますか?」

「私の母は、私の母という役割しかなかったような気がします。他の、誰かの妻とか誰かの友人とか、そういう役割を担うことはほとんどありませんでした。私の友人にも母親との関係が難しい人がいます。ただ、彼女の母親は、母親であるというより妻であるというアイデンティティーの方が強いんです。彼女は結婚して誰かの妻になることで、ある程度母親との距離が取れたように思います。私の母親は、どうしても母親なんです。だから、私がもし結婚して家庭を作ったとしても、彼女にとってそれでは不十分なんです。子供ができて、私と母が同じ『母親』という役割を担わない限り、私はいつまで経っても娘であって、対等な関係にはなれない気がします。それにしても、『なぜ』と『?』から見た時に、その他のものが思った以上に中心で複雑に絡み合っているので驚きました。こうやって客観的に見ても、母と私の関係の酷さに対して自覚的になれないでいます」

「『なぜ』と『?』が互いに離れていて、とても客観的な位置にいますね。そして、中心は混とんとしている。そして、『母』が危険を表す赤で、あなたを直接表現している『私(mein)の』も『私(ich)』も、両方とも淡い、綺麗だけれど弱い色をしているのが気になりました。でも、自分を客観的に見る視点がこうして中心のごちゃごちゃしたところから離れたところにあるのは、とても大事なことだと思います。あなたは小さい時にお母さんが不在のような環境だったと思いますが、『小さい時に、お母さんがいなくて寂しかった』という風に日本語で言えますか?一度、その気持ちに自分自身で触れてみるというのは大事なことだと思います」

「日本語で良いんですか?私は……」

そう言おうとした瞬間、不意に寂しさが楓を襲った。

「わた……」

楓は泣いて、それ以上続きを言うことができなかった。楓は何で涙が止まらないか分からなかった。子供の頃に感じていた寂しさは曖昧で、はっきりと思い出せるものではなかった。しかし、何らかの捻じれた感情が幼少期にあることは、楓が涙するというところから推察されえた。