第五章

 「これでピルみたいに飲み忘れることもなく、確実に避妊できます」

 楓は婦人科で小さな棒状のチップを注射器で左上腕の内側に埋め込んでもらった。チップによって妊娠状態を作り出すので、生理も来なくなるという説明を受けた。チップは三年間有効で、微量のホルモン物質がその間出続ける。妊娠したい場合、もしくは三年後には一度チップを取り外し、必要であればまた同じ腕に埋め込むのだそうだ。楓は自分の左腕の内側をそっと触ると、人差し指の下に異物が入っているのを感じた。

 楓は、今日の日付と取り外す年と月が書かれたカードをもらって婦人科を後にした。

 チップを埋めて二週間後、予定通り、しかしそれまでと比べえてだいぶ軽めの生理が来た。楓はそれまで生理痛が酷く、一日に何錠も鎮痛剤を飲んでいた。夜は一錠だけだと明け方腹痛のために起きてしまうから、特に二日目、三日目の生理が重い日は夜に二錠飲んでいたのだが、今回は二日目、三日目だけ朝晩一錠ずつ飲むだけで痛みは治まった。痛みが軽減され、体が妙にむくむほど生理そのものも酷くなく、楓は今までにないほど快適に生理期間を過ごした。

 チップを腕に埋めてから三か月が経過し、もう完全に出血がなくなった頃、楓はふと自分の体がもはや自分の外側から何にもつなぎとめられず、自由になった気がした。

 楓は、独り暮らしをして物理的に両親から離れても、自分が幸せや楽しさを感じる時に、必ず両親にそれを分けてあげないといけないような気がしていた。一人で何かを楽しむことは、常に両親への罪悪感(schlechtes Gewissen)を同時に生み出していた。罪悪感は、自分だけではなくて両親も楽しませなければという義務感(Pflichtgefühl)となり、それが達成されないと心の底から目の前のことを十分に楽しめなかった。

 母親は、楓のことを何もできない娘に仕立て上げようとしていた。楓は実家住まいだった時、家事なんて楓にはできないし、独り暮らしなんてできるはずがない、と言い続けられていた。母親はよく、「本当に何も出来ない子なんです」と、自分自身を卑下するかのようにして楓のことを卑下した。兄弟がいないこともあって、一人暮らしになっても常に実家のことが気にかかり、いつも自分が支えなきゃと思って両親とよく連絡を取っていたが、最近は忙しくなり、気づいたら電話越しに声を聞かなくなって二か月以上経っていた。それも手伝ってか、離れていても常に感じていた、体に染み込んでいた母親の痕跡(Spuren)が消えたように思えたのだ。楓は友人がいても、世間でいうところの恋人ができても、常に母親からどこか肉体的に逃れきれないでいた。母親と決して共有できないはずのセックスという秘密でさえ、楓と母親を完全に引き離すことはできなかった。たまに実家に帰ってお風呂に入っている時に、久しぶりに話したがる母親がお風呂場をノックして、返事を聞く前にドアを開けてきた。嫌なそぶりをしたり、後でお風呂から上がったら、と言っても、母親はそのまま長話をした。親だしそんなに嫌がらなくても、とも思ったが、視線が楓の裸体にべたついて絡まり、かすかに悪寒が走った。小さい時は、眠れないでいると、親がこっそり部屋に入ってきて楓が眠っているかを確認しに来たのが分かった。おそらくほぼ毎日見に来ていたのだろう。眠っている時は全く分からなかったが、たまに寝付けずにいると、寝たふりをしながら親の気配と視線とを感じていた。昼夜関係なく、リビングから階段を上がってくる両親の足音によって、楓は自動的に緊張した。足音と共に、両親の気配を身近に感じ、それは楓の身を縮こませるのに十分だった。楓は親の視線が肉体に絡みつき、それから逃れきれないでいた。それゆえ楓は、常に自分の肉体なのに自由が利かないように感じていたのだった。楓は、常に見えない目によって監視されているような感覚を抱いていた。それゆえ、誰かが読むはずのない日記にさえ、本当の気持ちを爆発させられずに自分を偽っていた。母親は専業主婦で、常に楓中心に生き、楓だけが世界と母親を結び付ける媒介だった。母親は楓を通した人生を生きた。これに関して楓に拒否権はなかった。母親にとって、世界はまるで楓のお腹にぽっかり空いた穴から覗き込め、たまにそこに手を差し込んで触れることができるものだった。母親は精神ばかりでなく、楓の肉体をも媒介して生きていた。楓の体を、楓と母親は共有していた。しかし、今や楓は避妊チップによって体が軽くなり、体のあらゆるところに付いていた、見えない触手の吸盤から解放され、自由を感じた。その自由は、出産という最も女性的で個人的なものを自分が主体となってコントロールし、自分が母親になる可能性を排除したことによるものだった。楓が肉体を自分の意志でコントロールすることで、楓の肉体は、ようやく母親と共有していた共有物から、自分だけのものに変化した。

 ところが、楓は母親から肉体が解放されたと感じると同時に、自分の肉体を感じられなくなったことに気づいた。楓は避妊チップによって、自分の肉体を感じる唯一のものである生理痛も失っていたのだった。あらゆる負のものを肉体が背負い、肉体が消し去られたようになっていた楓にとって、生理痛は自分の肉体の輪郭を確認するための、唯一のよすがだった。毎月痛みによってかろうじて感じていた肉体そのものを、楓はもはやとらえられなくなっていた。楓は痛みを求めた。痛み以外で自分の肉体を感じることが不可能なくらい、楓は肉体から切り離された存在になっていたのである。

 チップによる確実な避妊をしてから、楓の直樹に対する関係も変わった。それまで、楓は自分の体がいつ排卵するのか、卵巣の痛みによって分かっていた。卵巣に痛みを感じたからこそ、そして精子がひとつとして卵子にたどり着かないということを直観できたからこそ、楓は自分の体から流れ出す精液を感じられていた。排卵の痛みもなくなって、楓の人生から、わずかに残っていた子供ができる可能性と危険性が絡み合った予測不可能なことが消え去った。この、女性にとって常にセックスと隣り合わせである予測不可能性によって、かえって楓はそれまで直樹との関係をその日、その時だけではないものとして描くことができていた。排卵時のわずかな痛みが、そして受精していないという直観はあったにせよ、次の生理が来るまで確実に妊娠していないとは断定できないことが、自分の人生における現在のもっとも身近な不確実性が、楓の人生をある程度確実なものにしていた。予測不可能なものとしての動物的な生殖、そして生殖と結びつく痛み、この二つは楓を人生に繋ぎ止めるものだった。その上、直樹の精液は、いつの間にか匂いがしなくなり、ただのさらっとした液体となっていた。精液は楓の体に余りにも馴染みすぎ、楓は精液の温度さえ感じられなくなっていた。精液の穏やかな異物感をもはや覚えられなくなった。