第四章

「はいはい、ちょっと待ってね。いまあげるからね」

そう言って楓はケージを開けて、ケージをガジガジ齧りだした二匹のデグーにまずは干し草を与えた。白と灰色のブチの方はミスティー、茶色一色の方はマティーニという。楓は二匹を買った時、げっ歯類の繁殖力がすごそうだったので、二匹ともメスを選んだ。デグーはハムスターより大きく、顔はウサギのように愛らしい。すぐに糖尿病になるので、いつも与えるのは水、干し草、そしてフルーツなどが入っていないデグーフードである。ミスティーは干し草を両手に持ち、マティーニは片手に持って鼻を膨らませながら、夢中で食べている。この子たちは、寝たい時に寝て、食欲もあって、構ってほしい時はケージを齧って、動物としての最低限のことをいつも全力でやっている。寝付けず、食欲もない自分は、動物としての人間の部分がごっそり削げ落ちている。デグーを見ながら楓は自分の存在に違和感を持った。

 干し草の後にデグーフードも与え、しばらく腕にデグーを乗せて遊ばせていた楓は、マティーニがしきりにお尻をこすりつけながら前足だけで楓の腕の上を行ったり来たりしていることに気付いた。今までマーキングされたことなんてなかったのに、どうしたんだろうと思い、ネット上の数少ないデグー情報を調べてみた。すると、マーキングするような仕草はデグーの発情期によく見られるものだということが分かった。楓はデグーを遊ばせるのを終えて、ケージを閉め、再び様子を観察した。やはりマティーニはお尻をケージの底にこすりつけている。マティーニの発情期の行動から、楓はふと、自分には子孫を残したいという欲求が全くないことに気付いた。楓には、結婚したいという思いも、自分の子供を産みたいという思いもなかった。そういう、多くの人が持っている、何か未来を思い描くのに便利な道具を手にしていなかった。デグーたちはたらふく食べて落ち着いたせいで、今度は寝る時の態勢になった。顔が少し不細工になり、体中の毛がぽわぽわする。そして二匹とも団子のようになってぴったりとくっついて丸まった。それはまるでお互いに体温を求めているかのようだった。楓にはヒトの体温を求めたいという欲求もなかった。それは、体が何も感じられなくなったから体温を求めないのか、体温に触れても何かが埋められていく感じが全くないから、体温というのは触れても触れなくてもどちらでもいいものだと心のどこかで諦めているからなのか分からない。いずれにしても、体温を感じて安心することもなければ、体温を貪り食いたくなる衝動が湧きあがることもなかった。動物以下なのかもしれない。楓はぼんやりとそう思った。それと同時に、本能をどこかに置いてきてしまったのは、非常に人間的なのかもしれないとも思った。他の人のように本能の炎を薄ぼんやりと絶えることなく宿している人間的動物に対して、自分は非動物的人間なのではないかと楓は思った。楓は、諸々の動物的欲求が自分に当てはまらないのに呆然とした。ところが、楓にはひとつだけ動物的なものが残されていた。

 肉体をひたすら消していった楓に最後まで残っていたのは、最も動物的と言える嗅覚であった。

 

 楓は人事異動でドイツでの海外勤務を希望していた。そのことを英恵に話したら、大学の先輩で三年ほど前にドイツ勤務から戻ってきた人を紹介してくれることになった。まだ希望通りになるかどうか確定はしていないものの、決まってからいろいろ準備するのでは遅いし、一度会って生活面や制度面について話を聞いてみることにした。

「こんばんは。初めまして。磯山直樹といいます」

「及川楓です。英恵さんと同じ会社に勤めています」

「先輩、お久しぶりです。お元気でしたか?」

「うん。日本に帰ってきてからずっと残業の嵐で、相変わらず大変だよ」

直樹はデュッセルドルフに三年間いたとのことだった。楓は行くとしたらミュンヘンになる。離れているとはいえ、同じドイツということで、滞在許可証の申請の際に必要な書類などの行政手続き的なことを直樹に教えてもらった。あとは、日本から持っていくといい物や、現地の中国系のお店でアジア系食材を調達できること、秋にしか飲めないフェーデルヴァイセという発酵中の新しいワインのこと、ドイツ南部ではフランケンワインが美味しいということ、ドイツで食べておくといいという凶暴な見た目のシュヴァイネハクセという料理についてなど。直樹は次々に楽しそうに話した。

 皆で楽しく話し、荻窪駅へ向かう途中、英恵は少し千鳥足になっていた。直樹は、楓に向かって小声で言った。

「英恵ちゃん、お酒強いはずなのに珍しく酔ってるね。大丈夫かな? 仕事でかなりストレスがあるのかな? それとも、プライベートで緊張を強いられることがあるのかな?旧知の間柄の僕に久しぶりに会って、急に緊張が解けちゃったんじゃない? 僕は彼女にとって、特に利害関係のない存在だしね。逆に、普段は相当緊張して疲れているんじゃないかと思う。ちょっと心配だな」

楓は直樹が何気なく話した英恵に関する推察があまりにも的を射ていて、感嘆した。たしかに、英恵は最近、仕事で責任あるポジションを任されてずっと緊張しているようだったし、プライベートでは彼からのレスポンスが遅いことを何となく愚痴っていた。楓は、直樹が、一つの出来事・事象から何かを推察する能力、そもそも人の変化を察知する感性があることに、とても驚いた。

 直樹と会った翌週、楓は直樹からメールをもらった。

「もしよかったら、またお食事しませんか?」

 レストランを出た楓と直樹は、駅まで一緒に歩いた。楓は歩きながら違和感を覚えた。直樹の方が車道側を歩いていたからだ。楓は友達と一緒に歩く時、相手が女性でも男性でも、自然と車道側を歩くことが多かった。楓は直樹の気遣いにむずがゆさを覚えた。信号待ちをしている時、直樹は楓のことを抱きしめた。楓には抱きしめられた感覚はなく、体には悦びも、逆に気持ち悪さも湧いてこなかった。直樹の手も体も、熱を帯びずにさらさらしていた。直樹の匂いは洋服についた柔軟剤の匂いとまざり、とても心地よかった。楓は直樹の体温を感じられなかったし、楓の方から体温を求めることはなかった。しかし、直樹の匂いだけは、楓の心を優しく包んだ。直樹の匂いに若葉の匂いがきれいに連なり、直樹の匂いが大気にのびやかに広がっていくかのようだった。直樹はしばらく楓を抱いた後、そっと楓から離れた。直樹はとても優しい目で楓を見つめた。楓はふと、この人は自分がこういう笑顔をするというのをきっと知らないんだろうなと思った。

 

 ある土曜日、楓は大学のゼミの同期だった未来の家に招待された。未来はどこか楓を頼りにしているらしかった。頼りといっても、独身女性同士でしか話せないようなことを話すのに、楓が一番適していると思われているからのようだった。そのため、未来は何かに漠然と傷付いた時なんかに、よく楓に声をかけて一緒に食事をした。

 「はーい。ちょっと待ってね。今開けるね」

そう言う声が部屋の中から聞こえた。まだ料理を作っている途中らしく、少し経ってから未来が玄関のドアを開けた。

「今日は招待してくれてありがとうね」

「ううん。どういたしまして。来てくれてありがとう。あ、スリッパこれ使って」

楓は玄関に入ると、オーブン料理の匂いとともに、未来の匂いを感じた。未来の匂いそのものではなく、未来の生活臭かもしれないが、その匂いは楓にはとてもはっきりとしたよそよそしいものに感じられた。未来の部屋に充満する匂いに対する違和感は、楓の自分自身の匂いに対する違和感を引き立たせた。楓は自分の部屋にいる時以上に、自分の匂いに対する嫌悪感を募らせた。人の匂いからは逃れられても、自分の匂いからは決して逃れられず、自分から漂ってくる生暖かい匂いを気持ち悪く感じた。決して交じり合わない二人の人間の発する二種類の匂いが料理の匂いに包まれていた。

 楓はサラダを作るのを手伝い、テーブルにはコーンスープ、サラダ、そしてラザニアが並んだ。

「楓はまだ彼氏はいないの?」

「うん、いないよ」

楓は直樹の顔をちらりと思い浮かべながらそう言った。

「そっかあ。私もそう。もう恋愛とかいいから結婚したいんだよね。周りの友達もどんどん結婚していくし、中には子供が産まれた人も最近増えてきたから」

「そうなんだ」

たしかに、楓の周りにも家庭を持つ人は増えてきてはいたが、楓はなんで未来がそんなに結婚したいのかが分からないまま相槌を打った。

「私ってバリバリのキャリア・ウーマンっぽく見えるかもしれないけど、正直仕事はそこそこでいいんだ。早く結婚して子供が欲しいの。年齢的にも高齢出産にならないうちに結婚したいから、最近すごく焦ってるの。はあ、みんなどうやって出会っているんだろ。こっちは全然出会いがないっていうのに」

未来は航空会社の地上勤務をしており、容姿も良いし、接客をしているのもあって人当たりもとてもいい。たしかに、パートナーがいないのが不思議なくらいだ。楓は、好きなパートナーとの生活を想像するのは理解できたが、パートナーがいないのに理想の家庭の想像をするというのは分からなかった。そして、なんでパートナーという形の人間関係が欲しいのか、なんでそれが今ないことで未来は自信を失い、特定の誰かによってではなくただ漠然と自尊心に傷を負っているのか、とても不思議だった。不思議であるのと同時に、未来の話を聞いていると、なぜか未来の自尊心が受けた傷と同じような傷を自身も負い始めるような気がして、ぼんやりと暗い気持ちになった。

 頭が締め付けられるように痛い。窓の外をふと見ると、外は雨が降り始めていた。片頭痛持ちの楓は、春の変わりやすい気圧のせいで、体の芯に怠さを覚えた。部屋の換気のため、食後に窓を開けたら、外から雨の匂いが吹き込んできた。食事の匂いも、自分の匂いも、未来の匂いも雨の匂いにかき消され、楓は少しだけ気持ちが軽くなった。

 

 楓は直樹と主に週末、定期的に会うようになっていた。会う時は必ず直樹から連絡があったが、いつも事前に予定を調整するのではなく、一日、二日前にメールで空いているかの打診があった。それも、回を重ねるごとに、いつの間にか金曜と土曜をお互いに空けておくのが習慣になっていった。いつも明け方まで眠れなかった楓は、直樹と一緒の時だけ、直樹の寝息を聞きながらすっと深い眠りに落ちた。楓は相変わらず抱きしめられても何も感じなかった。何も感じられないからこそ、匂いを頼りに楓は直樹の体を求めた。求め続ければ、いつか体温を感じられるかもしれないと思ったのだ。直樹に触られても、そこに神経が集中して敏感になり、下腹部に熱いものが流れ渦巻き、触られた部分から次第に力が抜けていくということはなかった。とは言え、楓は直樹に体を触られることに静かな心地良さを感じてはいた。肉体と肉体の直接的な触れ合いは、楓を安心させた。それは性的興奮とは全く違う、自分から性別を剥ぎ取ったようなもっと根源的なもので、言うなれば、Sex(性別)を超えたSex(セックス)のようだった。

 直樹が楓の上で、楓を抱きしめたまま早くなった鼓動が再び落ち着くまでに、二人の息はシンクロした。直樹が息を吸う時に楓は息を吐き、逆に直樹が息を吐く時に楓が息を吸った。ぴったりとあわさったお腹の上下運動は二人に一体感をもたらした。それは楓の飼っているデグー達が寝るときに自然と身を寄せ合って団子になるのと似ていた。楓の肉体は、まるで、体温を持っていないようだった。しかし、いつかそのような感覚が蘇るのではないか、相手の体に触れている自分の手が細かく震えてしまうくらい誰かをこの手で感じられるようになるのではないか、そんなささやかな期待から、楓は直樹の肉体を求め、そして体温を確認するかのようにして直樹に触れた。楓は貪欲に、そこにあるはずの熱を貪った。

 楓が唯一、直樹の体を直接感じられたのは、直樹の精液だった。直樹の精液は、直樹に似つかわしくない匂いがし、とろとろして、暖かかった。楓は直樹の精液の匂いが嫌ではなかった。楓はいつも、自分の体内に心地良い異物感を覚えた。楓は毎回、直樹の精子を綿棒で掻き出した。綿棒で掻き出してしばらく時間が経ってからもなお体内から精液がぬるっと顔を出し、自分から直樹の匂いが漂ってくるのは、直樹さえ知り得ない直樹のことを知っているような気がして、心が満たされた。

 楓は直樹と一緒にいる時、無限に伸びていくかのような自由(Freiheit)を感じていた。こういう感覚は男性・女性を問わず今まで感じたことはなかった。楓は、無理に自分を突き放さずに話すことができ、自分の話し方にわざとらしさを見出さなくなっていた。楓の頭蓋骨の中には自分の声が響いていた。楓は直樹の前では心が解放(Befreiung)され、自分が自分でいられることができた。楓は、直樹と一緒にいることで、自分自身の人生を取り戻し(zurückbekommen)ているような気がした。日常の些細なことが楓にそう感じさせていた。楓は、「私はやっと人間になれるかもしれない」。そう思った。そして、以前なら絶対にやらなかったことまで、やれるようになっていった。例えば、以前は体を動かしたい思いはあっても、肉体は楓の思うように動いてくれなかった。音に合わせて体を揺らす程度でも、例え誰も楓のことを見ていなくても、恥ずかしさからどこかぎこちなくなってしまっていたのだ。楓は自分の肉体を少しずつ取り戻している気がした。直樹といると、今まであることさえ気付かなかった自分の中の引き出しが次々と開かれていく感じがした。それは、楓にとって、かけがえのない全くの新しい経験だった。

 楓と直樹は、それぞれ納得したうえで一緒にいることを決めた。それは二人にとってとても自然な流れだった。ドキドキすることもなければ、ロマンチックなこともなく、逆に気負うこともなかった。二人には、単に、一緒にいないという選択肢がなかった。ただそれだけのことだった。
 直樹は、楓以上の感性と繊細さを持ち合わせていると楓は感じており、それは二人が初めて会った時、すでに感じていたことだった。直樹が、人のことにあまり関心がないようでいて、人を良く見ているのに楓は気付いていた。それは、直樹が、非常に些細な言動からその人の本質を突くような見解を持つことに由来していた。楓は、こんなにも繊細で感性が豊かだと、きっとこの人は生きていくのが大変だろうと思った。直樹の精神(Geist)には実際、感性と理論が危ういバランスで同居しており、この二つのバランスを保てるのは直樹だけしかいないように思えた。直樹は、自身の感性によって受け取った情報を、さらに分析して理論化することに長けていた。それゆえ、ほんのちょっとした出来事、他の人が気付かないような人の些細な行動から受け取る情報量は莫大だった。普通なら、人が見ていないものが直樹には見えていたからだ。その情報を無防備な状態で一身に浴びながらも、それに辛うじて飲み込まれることなく、直樹の精神はそこにしっかりと屹立していた。楓は、自身の場合、その両者のバランスをしばしば崩してしまうことを自覚していた。だからこそ、余計に直樹の精神の繊細さの中にある強靭さに心を奪われた。

 楓はそれまで、生きれば生きるほど自分の人生を失ってきた(verlieren)ような気がしていた。いつの間にか何か鎖のようなものにがんじがらめになってしまっていた。この鎖は、一度体に取り憑くと、二度とそれから解放されることはない。そういう鎖が楓には幾重にもかかっていた。楓は、自分の身動きが取れない人生を顧みる時、ショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク群のマクベス夫人』を思い出した。楓はこのオペラが好きだった。音楽的にというよりは、そのストーリーが好きだった。 

 家父長制の中でがんじがらめになっている一人の既婚女性が、どうしようもない男に恋をして不倫する。女性は、行きがかり上、夫の父親を毒殺し、さらにこの男と共に夫を殺す。自分の犯した犯罪を隠ぺいしたのだが、二人が再婚する婚礼パーティーの最中に、通りすがりの酔っ払いによって偶然死体が見つかる。二人は警察に捕まり、シベリア送りとなる。苦役を強いられる中で、男の心は簡単に彼女から離れていく。男は、別の囚人女性と親しくなる。彼の心が常に傍にあるならばシベリアも耐えられると思っていた彼女は男にすがるが、すげなくされ、失意のどん底に落ちる。男は、彼女に対して、足が冷たくてかなわないから靴下をくれと言い、彼女は自分の履いている靴下を男に渡す。しかし、男は彼女からもらった靴下を、別の囚人女性にそのままプレゼントし、二人は彼女を嘲笑する。そのことを知った彼女は、男が愛し始めた囚人女性を殺し、自分も自殺する。彼女が最後に歌う、「森の奥に真っ黒な小さな湖があり、私の心はその湖のように暗い」という歌には絶望と美しさがあった。彼女は二人の人を殺し、自らも破滅に向かった。しかし、そうせざるを得ないまでの状況に追い詰められていた女性の絶望感と女性を閉じ込めてきた閉塞感があった。場面場面で浮かび上がるいくつかの選択肢の中には、常にあまりにも運命的な方を選び取りすぎてしまった女性の無垢な美しさが感じられた。いや、結末を知っているから運命的なように見えるだけで、実際は運命なんてものは結末が決まっている閉じられた物語の中でしか存在しない。彼女は、家の中に閉じ込められ、夫が不能であるにもかかわらず、舅には子供ができないことを彼女のせいだとなじられていた。彼女は、その小さな世界だけを自分が生きていく人生の舞台にしたくなかった。彼女にとって、彼女を解放してくれ、自由にしてくれるのは、その男しかいなかった。だから、彼女はその男を選んだ。それはまったくの彼女の自由意志によるものだった。しかし、彼女の自由になりたい思いは、結局成就せずに、自分の無垢な心にどす黒い物を抱えることになった。自分の人生から救い出してくれるのが、一人の男性であれ、他の何かであれ、同じ状況にいたら、たとえその先に破滅が待っていたとしても、楓も間違いなく同じ道をたどるという確信があった。

 

 楓はずっと誰かと一緒にいることができなかった。一週間が過ぎ、十日が過ぎるころには精神的に疲弊してしまうのだ。しかし、直樹とはいつまででも一緒にいられた。直樹は、楓自身が気付いていない新たな側面をいつの間にか引き出してくれ、楓はそれに涙してしまうこともしばしばあった。一緒にウィンドウショッピングをすると、直樹はいつも、楓が今まで手に取ったことがないような洋服で、しかも楓によく似合うものを探し出してきた。楓はそれがすごく嬉しかった。楓は直樹といると、それまで自分で自分に対してかけてしまっていた呪縛のようなものが解かれていくような実感があった。楓は、無意識のうちに自分を縛り付けてきたものの多さに驚いた。自分の人生に知らず知らずのうちに生じていた歪みのようなものが、一緒にいるだけで矯正された。

 椅子に座っている直樹に楓は跨り抱っこしてもらい、二人は向き合った状態で心がひたひたと満ちる感覚を味わうことがよくあった。頬をくっつけているだけで、自身にまとわりつく錆が溶けていくような感じがした。直樹の頬はすべすべしていて柔らかかった。何もしないでただ一緒にいる時間はあっという間に過ぎた。二人にとって時間の経過を実感させるものは、時計ではなく、また日の出日の入りでもなく、食事の時間だった。お腹が空いてきたということが二人の体に流れる時間を最も強烈に支配していた。二人は決まって、「時間がいくらあっても足りないね」と言い合った。