第三章

 「今日はランチどこへ行こうか?」

同じ課の二歳年下の樹里、同期の英恵とは、週に何度か一緒にランチをする仲だった。三人は会社近くのイタリアンへ行くことにした。楓は職場の入り口のドアを開け、樹里と英恵はその後に続いた。

「最近は彼が前ほど連絡を取ってくれないの。ちょっと寂しいんだよね。昨日メールしてくれたんだけど、それだって三日前に出した私からのメールの返信だし。もうさ、心配になるし不安にもなっちゃうんだよね」

 信号を待ちながら、英恵はいつものように彼氏に対するちょっとした愚痴を口にした。英恵がそう言った時に突然木枯らしが吹き、セミロングの樹里とロングの英恵の髪が舞った。二人は同時に長い髪を押さえ、風が緩やかになってから、右手でおでこの辺りから髪をかき上げ、そして両手で後ろの髪をさっと上げて手を放し、髪をすとんと落とした。楓はショートボブの髪を両手で二、三回手早くなでつけて髪を整えた。二人が艶のある髪に命を吹き込んでいる姿は、後ろから見てとても綺麗で、楓は羨ましくもあった。しかし、楓は髪を伸ばすことに抵抗があった。ロングヘアがあまり似合わないだろうというのもあるが、一番の理由は、特に冬、コートを着る時に、コートと服の間に挟まった髪全体を下から持ち上げて下ろす、その仕草を自分がしているところを想像できなかったからだ。そのあまりにも女性的な仕草が恥ずかしくてどうしてもできず、ボブとショートボブの間を行き来していた。

 楓は小学校の高学年の頃から、他の女の子が女性であることを意識し始め、次第に女の子らしくなっていく中で、逆に女の子であること、あるいは周りから望まれるような女の子らしさに違和感を覚え、外側から自分にヒルのようにくっついてくる女性性を体からひとつずつ引きはがしてきた。それは、小学生の時は、いわゆる男言葉を使い、男の子たちとほとんど毎日、殴る蹴るの喧嘩をする学校生活に表れていた。好きな男子ランキングを三位から一位まで女子同士で発表しあい、秘密を共有する、そして好きな男子の前で女の子らしく振る舞う、そういうことは楓には一切できなかった。好き嫌いだけを言うならまだしも、なんでそこに順位をつけられるのか分からなかったのだ。いや、実はその「好き」に関しても、すでに物心ついた時から楓には分からないものだった。楓は小学生の時から、自分が大人になった姿を想像し、そういう大人の自分、それはせいぜい当時の楓の想像力では大学生くらいだったが、大人になった自分から見たら、小学生の自分が名前を挙げる好きな人なんて、本当に子供じみて霞んでしまうものだと思って冷めていた。楓は女の子同士の秘密の共有ごっこをまるでそつなくこなせなかった。女性的なものを避けていくことは、女子中学校、高校の間は男子がいないことで表立っては姿を潜めてはいたものの、しかし女の子同士の間で、楓は常に男役を演じる方に回されてきた。自主的にそちら側に回ったのではなくて回された、というのも、女の子らしい女の子というポジションを自ら選択しない、ということによって、自動的に男役に回ることになるからだ。たとえ同性だけのホモ・ソーシャルな世界でも、そこには女性的な役割を担う人と、男性的な役割を担う人が自然にできる。大学に入り、男性の中にいることで女性性が如実に引き立つ中、楓は洋服こそスカートやワンピースを着ていたものの、女性を象徴するような長い髪を嫌い、入学して三か月後には髪をばっさり切ったのだった。

 レストランに入り、「三名です」と楓は店員に伝えた。樹里と英恵は壁側のソファー席に座り、楓は椅子に座った。ランチでは、英恵の彼氏の話、そして樹里の最近気になる人の話を聞くことになった。

「へええ、樹里、好きな人ができたんだあ」

英恵は身を乗り出してそう言った。

「そうなんです。二年後輩の波多野君。私が先輩として教えることが多いんですが、ついこの間一緒に食事へ行ったんです」

「楓はどうなの?彼氏がいるところとか、好きな人がいるところとか、全然見たことないんだけど」

「ううん。そうだねえ。あんま興味がないから」

「なにそれ、もったいないよ。せっかく可愛いのに。もっと人生楽しみなよ」

こういう会話を大学の頃から幾度しただろうか。楓は恋人がいないことで、なんで普通じゃないように言われるのか理解できなかった。楓にとってはむしろ、恋人が近くにいるのにあまり会おうとしないカップル、お互いに制御不可能になって精神的肉体的DVが男性から女性、あるいは女性から男性に向かうカップル、どちらかが大して好きでもないのにパートナーをキープして相手を利用しあっているカップルが、カップルとして成立していることの方が問題に思えた。多くの場合は特に女性間で、楓は恋人や結婚相手のいる女友達にどこか上から目線で諭されるようなことがあった。

 

「私、来週の金曜日、波多野君と食事へ行く約束をしているんですけど、そこで頑張って告白しようと思ってるんです」

「ほんとに? うまく行くといいね。応援してるよ」

英恵が余裕のあるトーンでそう言った。

 樹里が波多野君に告白した次の週の月曜日、楓は通勤電車の中でいつものようにフェイス・ブックのページを開いた。

「うわ」

 楓は写真を見た瞬間、恥ずかしくなった。フェイス・ブックで、樹里が鏡に映った自撮りをアイコンにしていて、それを見た瞬間、激しく羞恥心を掻き立てられたのだ。なんで恥ずかしいと思うんだろうと考えながら、写真をまじまじと見た。上目遣いで顎を引いているため、膨らんでいる頬は隠せていたが、それは見慣れた樹里の顔ではなかった。樹里は自分が一番かわいく見えるように顎を引いて、鏡を使って胸より少し下の位置から携帯のカメラで自撮りをしたようだった。写真では、可愛く映ろうとしているというのに生身の樹里が持つ彼女らしい可愛らしさが消えていた。普段自撮りなんてあまりしないのに、いったいこのアイコン写真ができるまで、何枚写真をとったのだろうと楓は考えた。誰かがカメラのレンズを向ける時、カメラを取る人という媒介が入り、それはひとつの反省的機能を果たす。これは自撮りとはいえ、鏡を使っている。それなのに、反射(Reflexion)による反省(Reflexion)の機能を鏡は果たしていないように思えた。樹里の目に、普段の樹里の姿は映っているようには思えなかった。誰かが見た樹里の姿ではなく、樹里自身が見た自分の姿を、このアイコンを目にする人は見ることになった。そこには、自分の目線で見る自分の姿に対する絶対的な自信、無反省の自己肯定感が漂っているように見えた。鏡に映った自分に対する躊躇が全く感じられず、人がいつも見る樹里の姿とは違う、樹里によって少し可愛く解釈され直した姿がそこにあった。この自撮りは、自撮りをよく撮る人とも違って、自分を可愛く見せることに対して、あまりにも時間をかけて工夫されていた。写真には知性を感じることができず、楓は恥ずかしく感じた。楓は樹里の生活に変化があったことを察した。

 

 「ランチ一緒に行かない?」

英恵は金曜日にあったことを早く聞きたいようで、勢い込んで聞いてきた。

「うん、行こうよ。あそこの定食屋とかどう?」

「いいよいいよ。そうしよう。いま、樹里を誘ってくるね」

 三人は定食屋の四人テーブルに腰かけた。樹里は波多野君とのことを聞いてほしいのか、かえっていつもより口数が少なく、奥歯を少し噛みしめている。

「で? それで? 先週はどうだったの?」

席について水を一口飲むと、英恵は身を乗り出すのを懸命に抑えつつ、樹里に聞いた。

「それが、付き合うことになったんですう」

「えー! おめでとう!」

「良かったね。」

楓は会話のテンポに遅れずに、そう言うことができた。

「どんな感じだったの?」

「一緒に雰囲気のいいイタリアンへ行ったんですけど、お会計する前に、テーブルで、好きです、付き合ってくださいって言ったんです。そうしたら、波多野君からは、まだ山村さんのことをあまり知らないし、付き合えないっていう返事が来たんです。だけど、今は好きじゃなくてもいいから、付き合いながらゆっくり知っていってもらえたら嬉しいって言いました。その場では返事をもらえなかったんですが、駅で別れ際もう一度押したら、それじゃあってことで付き合うことになりました。なんか、だいぶ強引かもしれませんが、これからが勝負ですね」

楓が心の中でやっぱりそうだったんだと思った時に、英恵が、

「それで、週末は一緒に遊んだの?」

と聞いた。

「いえ、今週末は予定があると言われて。そのかわり、来週末の土日のどちらかで遊べたらいいなっていうメールのやり取りをちょうどしているところです」

「これからだねえ。これからクリスマスもあるし、楽しそうでいいなあ。うちらなんかは、もう若干マンネリ化してて……」

英恵は再び楽しそうに愚痴を言い始めた。

「楓さんも、早く好きな人ができるといいですねえ」

樹里が、たったひとりの男性からの承認を得ただけで自分に自信をつけられるのが、楓には不思議に思えた。内容はどうであれ、付き合っているという当人たちの、そして周りから見た時の形式的事実、女性が特定の男性から承認されたという形、それが女性をより一層完全なものとするようだった。

 三人で定食屋を出る時、お店のドアを開けたのは楓だった。