第二章

 和也は楓に話しかけもせず、ただ楓の後姿を追った。和也は、やはり賢かった。楓に対して肉体的接触も物理的接触ももたなかったのだ。楓は、和也もさすがに転職活動に入るだろうし、ストーク行為もしばらくしたら収束するだろうと思っていたが、それは甘かったようだ。会社の同僚と最寄り駅まで一緒に歩いて帰る時は和也の気配を感じないが、家の最寄り駅から自宅まで一人で歩く時、毎日必ず和也の足音、和也の気配を背後に感じた。四人で一緒に食事をしてから三週間ほど経ったある土曜日に、楓は自宅の管轄である三鷹警察署を訪ねた。担当に相談するも、特に直接的接触がないため、警察は何の介入もできないことが分かり、その後はただひたすら身の回りを警戒する日が続いた。どれくらい警戒すればいいのか分からなくなり、楓の神経は外にいる時に張り詰めっぱなしになった。楓の周りの人たちは自分たちの人生にあまりにも忙しすぎて、相談しようにも、面倒ごとに関わりたくないという気持ちが透けて見えた。まれに話を最後まで聞いてくれる人がいても、あなたが何かしたんじゃないの、と言われたり、場合によっては楓がモテる自慢をしていると受け取られて楓の相談内容に皮肉や嫌味を見出す人もいた。自分を変えるか、環境を変えるかしかないんだから、直接害を与えてこないようなそんな人なんか無視すればいいという人もいた。

 

 楓は助けを求められないまま、次第に精神的に追い詰められていった。ついに、心がずっと緊張していることに耐えられなくなった。そして、楓が壊れてしまう直前に、楓の肉体が心に与えられ続けた負荷を一挙に引き受けた。それによって心は辛うじて守られた。

 しかし、楓は自身の肉体から切り離された存在になった。

 どんなに疲れていても、夜眠れず、眠れないことに焦り、そのことで余計に眠れなくなった。明け方、鳩の鳴き声が聞こえ、今日も眠れなかったと気落ちしどっぷり疲れる日々が続いた。楓の肉体は二十四時間ずっと緊張していて、緊張が勝り、そもそも疲れらしい疲れさえどこかよそよそしいものだった。動物として当然の感覚である空腹さえ感じなくなった。空腹を感じられないのは、とりわけ辛かった。ご飯を食べる意欲が全くないのに食べなくてはいけないからだ。楓は、ご飯の味が全くせず、ご飯を食べているという自覚がないまま、ただ栄養素をできる限り胃に流し込むという食べ方をした。楓の肉体があらゆる負担を一挙に引き受け、知性と感性は鈍感になり、楓の仕事の効率は悪くなる一方だった。頭が重くて自分が何を考えているのか分からなくなり、思考が途中で途切れた。そういう状態の時は、仕事の休憩時間に、楓は喫煙室へ行って煙草を吸うようになった。普通に呼吸をしているだけで、体はとても怠くなっていた。息を吸うという生命を外から取り込むような動作は苦痛を生じさせ、息を吐くとき、体が地面にめり込むような感覚に陥った。しかし、煙草をくゆらせ、煙になった息を見ることで、ようやく自分が息をしているということが分かり、それにより辛うじて生きていると思えた。煙草の煙をぼうっとしながら見ると、一本吸い終わる毎に頭が少しだけ冴えるような気がした。

 ある日の仕事帰り、楓は和也の気配を背後に感じながら、ついに和也の声を聞くようになった。

「楓、なんで俺を無視するんだ?」

楓ははっとして後ろを振り返った。和也は二本後ろの電信柱の陰にすっと隠れた。聞こえるはずがない。和也はまるで楓の傍にいるかのように囁いてきた。それなのに、二人の間には声を張り上げないと聞こえないくらいの距離がある。楓はついに幻聴を聞いた。楓にとって、幻聴が聞こえる世界が、肉体が抹殺された自分の存在する世界だった。

 楓は、ある日、取引先に電話をかけた。

「お世お世話に話になっておりなっております。今度ます今度のプロジェクトのプロのジェクトの合同打合同打ちち合わせ合わせの件での件でお電話をお電話をしたのしたのですですがが……」

楓は自分が二重になったように感じた。自分の声に現実感が全くなく、声が頭の後ろから聞こえるのだ。楓は何度か深呼吸をし、自分の声との距離を縮めようとした。電話では、遮るつもりはないのに、相手の会話の途中で話し始めてしまい、申し訳ございませんと言うこともできず、自動人形のように話してしまった。楓は突然、耳に入ってくる声が自分のそれではないように感じた。楓は自身と、自分の話し方が乖離しているような感覚に陥った。今までどういう声で、どのくらいの速さで話していたのか、全く再現できなくなってしまった。楓は自分の声を失った。

 ある日、楓は上司から新規プロジェクトの資料をもらった。資料を読もうとしたが、楓には文章の意味はおろか、相当集中して読まないと、ひとつひとつの単語の意味まで急に分からなくなっていた。楓には、自分の身に起きていることに対して動揺する気力も残されていなかった。ただ淡々と、単語をひとつずつ拾っていき、何とか文章の意味を探っていった。それは、まるで新しい言語を習い始めた時のようだった。後頭部右下の一部分がまるで機能していないような気がした。何故か、その辺、というのが楓にとってははっきりしていた。脳の機能停止している部分は、脳みその働きでつかみ取れそうでつかめない。その部分は蜃気楼のように楓から一定の距離を取りながらも後頭部のその場所に必ずあると確信できた。奇妙な感じだった。相変わらず自分の声が頭の後ろから聞こえて、まるで自分が話している感覚はなかったが、自分が二重になった感覚に楓は次第に慣れていった。楓は二重になった自分をとらえようとするのではなく、徹底的に突き放すことで、突き放した自分に勝手に話させれば表面的には会話がスムースに行くということが分かってきた。

 

 楓は文字を満足に読むことができなくなり、電車の中で読書をしなくなった。そのかわり、車内で和也の気配を感じながら、ぼんやりと周りの会話に耳を傾けることが多くなった。男子高校生同士、女子高校生同士、大学生同士、サラリーマン同士、主婦同士、就活生同士がそれぞれ同じような言葉づかいで、同じような声の張り方で、同じようにのぼせたようなテンポで話していた。会話の内容も、面白い、興味を引くようなものではなく、どれもかつてどこかで耳にしたことのあるものと同じだった。まるで、それぞれが所属しているグループには決まった話し方があって、その通りに話さないといけないというルールがあるかのようだった。それは単に、電車内で耳にする言語がたいていは日本語だからという理由だけではなかった。なんで自分の体にぴったり合ったテンポで、そして自分の声帯にも耳にも心地よい声で話す人がこんなにも少ないんだろうと楓は思った。楓は、失ってしまった自分の話し方をもう一度取り戻したいと思っていた。あくまでも自分の話し方であって、誰かの話し方を模倣したものではない、そういうものを求めていた。電車内で聞く他の人の会話はそれゆえ、あまり楓の参考にはならなかった。

 「楓、俺も俺のおふくろも、今辛いんだ。助けてくれよ」

 和也が実際に、未だに楓の後をつけているのかどうかは、もう楓には分からなくなっていた。ただ、和也の声と存在を、会社と家にいる時以外、常に感じていた。楓は通勤時に、帽子をかぶり、サングラスをかけ始めた。楓は体をとらえようとすると、自分の肉体が胡散霧消する感じがした。それと同時に、肉体でつかめるはずの外の世界をとらえることができなくなった。楓は自分の体をとても小さく感じた。洋服も、皮膚という楓と外界を分かつはずの袋も、楓にとって大きすぎた。いや、楓を形作る大きな袋は、表面で絶え間なく呼吸をし、外界と楓を切断するふりをしながら、外の空気を取り込み、取り込んだ空気をまた吐き出し、外の世界と密通していた。外の世界は否応なく楓に侵入してきた。帽子とサングラスは、小さくなった心もとないまでに体を外からそっと守り、外の世界を遠くから眺めさせてくれた。外界は、双眼鏡を逆から覗き込んだように遠く、小さくなった。外界では、ガラリー席から遠く離れた下の方にある舞台を見る時のように、自分と関係なく物事が進行しているように思えた。

 「楓、俺には慰めが必要なんだ」