セラピーの部屋 その一

「こんにちは。始めまして」

「始めまして。及川と言います」

セラピーの部屋に入ると入り口右側に机がある。机の上にはノート、そして電源が入っているかいないか定かではないICレコーダーが置いてあった。

「どうぞこちらにおかけください」

セラピストは窓を背にして座り、楓はうながされるままセラピストとカウチテーブルを隔てて、入り口側の一人掛けソファーに腰かけた。丸い木目調のカウチテーブルの上にはティッシュが置いてあった。

「及川さんは、今日はどうしてここに来られたのですか?」

「私は日本にいる時から、理由があってもなくても定期的に落ち込んでいました。特にこの春夏はずっと苦しくて、毎日辛い気持ちで過ごしていました。それで、ふと、私はもう三十一歳で、あと二十年ちょっとしたら更年期障害でさらに心身ともに不調になるなと思ったんです。その日が来るまで苦しい状態が続いたら、私の人生はずっと苦しいままになってしまう。せめて更年期が来る前までは今よりも元気に過ごしたいと思いました。それで思い切ってここに来ました」

「ここはどのようにして見つけましたか?」

「インターネットのサイトを見て。顔写真を見て直感的に選びました」

ミュンヘンへ来て、どのくらい経ちますか?」

「こっちに来てから一年半くらい経ちます」

ミュンヘンへはお仕事で来られたのですか?」

「はい、そうです。海外勤務の任期はたぶん三年くらいだと思います」

「始めにお伝えしますが、私には守秘義務がありますので、ここで話したことが外に漏れることはありません。さて、今日はさっそくですが、ここにある楽器を使っていきたいと思います。感情が湧いてくるのには、必ずその原因があるんです。いわゆる(sozusagen)ネガティヴな感情というのはありません。怒りや悲しみであっても、それらは悪い感情ではありません。感情が引き起こされる原因に注目するために、音によって引き出される感情を味わってみてください。楽器によってはあなたに不快感をもたらすものもあるかもしれません。たとえば、これはどうですか?」

セラピストは大きな太鼓を叩いた。

「心臓に直接響いてきて、ちょっと脅迫されているような感じがして息が詰まります」

「では、これは?」

そう言って小さな鉄琴を奏でた。

「キラキラしたきれいな音で、とても好感が持てます。気持ちが上向きになります。」

「楽器はいろいろありますから、実際に音を出してみて、気にいったものを取ってください」

「分かりました」

楓は宇宙船のような形をした黒くて丸く、見た目以上に重たい、中心にHapiと書かれたドラムを選んだ。ハピドラムは、クリアーでありながらほんわりとした音色の楽器で、人の心の原始的な部分を優しく呼び覚ましてくれそうだった。たった八音しか出ないが、その音色と音階の単純さゆえに瞑想に使われそうで、楓の耳に心地よかった。

「それでは、私はこのカホーンであなたの演奏を支えますので、好きなように音を出してください」

楓は、不思議な形をした黒い楽器に目を落とした。今まで、こういう楽器を弾いたことがなかったし、そもそもアドリブのセッションなんて一番苦手とすることだった。今出した音をひたすら自分で肯定し続けるアドリブをするには、楓の自己評価は低すぎた。楓は何かによってがんじがらめになり、自己肯定の連続のような即興を堂々とする厚かましさと無邪気さを持ち合わせていなかった。それゆえ、楓は楽譜に沿った音楽を奏でたことはあったが、完全にアドリブで音楽を奏でたくても、結局間の抜けたものになって自信を失い尻すぼみで終わったことしかなかった。楓は恐る恐るハピドラムをマレットで叩いた。ふわっと匂い立ってくるような音が鳴った。セラピストはドンとカホーンの側面を叩き、トントントンと角を叩く。カホーンがドントントントンドントントントンとリズムを刻む。カホーンにまたがるセラピストには重力がかかり、体重がカホーンと足に接している床にしっかりとかかって安定している。楓はふわんふわんとマレットでハピドラムを叩く。ハピドラムとカホーンがあわさり、原始的な音がした。夜に松明を燃やしてその周りを打楽器のリズムに乗って怪しく踊る人影が見えるようだった。松明の炎によって影は伸び、ゆらゆらと人影は揺れている。二つの楽器の音は、楓と人影に陶酔をもたらした。楓は無心で聴いたことのない音、奏でたことのない音を響かせた。楓は、自分の手が自然に動き音楽を奏でていることに驚いた。そこにはぎこちなさはなかった。まるでその音がはじめからその音であるべきだったかのような自然さがあった。それは、手に収まる大きさの楽器だからできることなのだろうか、これまで絶対にできないと思っていた即興演奏を楓は自由にしていた。楓は左右のマレットで違う音を出して和音を作ってみた。歪みつつ調和した和音が耳の中でぐわんぐわんと鳴り響き、耳の奥、頭蓋骨の内側に快感を覚えた。楓は四分音符だけの演奏から、三連符を作って変化を出してみた。付点四分音符、畳みかける八分音符。それにつられてカホーンがどんどん力強くリズムを刻む。カホーンの鼓動にハピドラムの音が妖艶にまとわりつく。次第に陶酔の波が引いていき、夢から覚めながら、二つの楽器の音は小さくなり、最後の微かに聴こえる一音を奏で、余韻の中で音楽は終わった。自分の心の小さな動きを抑え続け、ついには自分が感じていることに対して全く敏感になれなくなっていた楓は、音楽を通して癒しと感情の高揚を味わった。楓は少し、心のひだを見つめることができた気がした。そして、新たに湧きあがってくる自分、音を通して呼び覚まされる自分を味わった。