第一章

 楓は自分が突発的に死ぬのではないかとどこか他人事のように思いながら生きていた。一線を超えるか超えないかの違いは大きいものではないように思われた。突如としてやってくる絶望の直後に死への希望はやってきた。いよいよ生きていけなくなったら死ねばいい、そうやって未来へと死にたい気持ちを延期(Verschiebung)することでようやく絶望の波を少し緩和することができた。楓の死の予感(Ahnung)は、常に楓の日常に巣喰っていた。それは、毎朝珈琲を淹れるのと同じくらいの自然さがあった。

 

「私にいくら払えますか?」

楓は藤田の、体温が高くて湿り気のある手を自分の腰に感じながら聞いた。

「え? どういうこと?」

「だから、触られるならいくらかもらえないと不公平だと思うんです。それとも、私の体は何の価値もないのでしょうか?」

 二人はバーのカウンターに並んで座っていた。楓は、仕事のアドバイスを求め、前に勤めていた会社でお世話になった先輩と久しぶりに会っていた。先輩の藤田には、今日は一軒目でスペイン料理をご馳走してもらった。割り勘でも良かったし、「私も支払います」と言ったのだが、藤田は自分の方が年上だし、せっかく久しぶりに会ったのだからご馳走すると言って、そのまま半ば強引に支払いを済ませた。楓は、まだそれほど夜遅くないこともあり、二軒目でお礼もかねて逆に藤田にご馳走すれば、今日は程よいところにおさまりがつくだろうと考え、レストランから歩いて十五分ほどの、地下のバーに誘ったのだった。階段を楓が先頭になって降りていき、ドアを開けて店内を見渡すと、テーブル席はすでに満席になっていて、カウンターに案内された。チーズの盛り合わせ、楓はマルガリータ、藤田はジン・トニックを頼んだ。チーズの盛り合わせが来て、少し時間をおいてカクテルが二人に運ばれてきた。

「それじゃあ、改めまして、乾杯」

二人はグラスを傾けた。マルガリータのグラスについている塩とお酒のさわやかな味が口の中で混ざった。外は夜でも蒸し始めていて、バーのドアを開けるまでうっすらと汗をかいていたのが、この地下にいるとまるで別世界のようだった。

「チーズ、美味しいよ。食べてごらんよ」

藤田はどこか先輩という枠を超えた馴れ馴れしさを含んだ声でそう言った。楓はチーズに手を伸ばしながら、共通の知人や昔の同僚のゴシップ的な近況について聞いた。楓はスペイン料理を食べながら話していた時の話題の方が仕事の話もいろいろ聞けたし面白かったのにな、と思いながら相槌を打った。グラスが半分くらい空く頃に、楓の左手の甲にうっすらと触れるか触れないかぐらいに、藤田の右手が触れてきた。

「それでさ、営業部に最近入ってきた若いやつは年上の女性と付き合っているらしいんだ」

楓はバーテンの方を向いて座っていたが、気付いたら藤田は楓の方に体を向けて座っており、相変わらず楓が興味のないことを話していた。

「お次はいかがなさいますか?」

お酒もなくなり、会話が一瞬途切れたところで、渋いひげを生やした中年のバーテンが次のオーダーを聞いてきて、楓は少しほっとした。

「それじゃあ、私はダイキリで」

「僕はマンハッタンをお願いします」

「かしこまりました」

バーテンがカクテルをシェイクしている。氷がぶつかり合う音が耳に涼しい。藤田はまだ楓の方へ体を向けたまま、所在なさそうにしていた。藤田の手は、バーテンが話しかけてきた時に、ちょっとした悪事が見つかった時のようにピクッと動き、楓から少し離れていた。

「どうぞ。ダイキリです。こちらがマンハッタンです」

二人の沈黙を破ったのはバーテンだった。二人はグラスを鳴らし、二杯目のカクテルを一口飲んだ。ふいに藤田は右手を楓の腰に回しながら、

「及川さんみたいなしっかりした後輩に入ってきてもらいたいよ」

と言った。藤田の湿気を帯びた体温の高い掌が、最近買ったばかりの薄手の生地の服を通して感じられた。藤田の掌が当たっている部分だけ体の外側から熱くなっている。その熱さは、自分の体から放逐したいような熱さだった。楓は初めて藤田の方に体を向けて言った。

「私にいくら払えますか?」

楓は藤田の手の温度を、この涼しい地下で感じなければならないのを不快に思った。それに、バーに藤田を連れて行くことにした時、「ご馳走しますよ」と言ったし、二、三杯飲んでつまみを頼めばだいたいトントンになるはずだった。藤田はスペイン料理を奢ったから楓に触れても許されるとでも思ったのだろうか。

「私に触りたいなら、お金をください。」
「及川さんの言ってることの意味が分からないよ。なんで僕が及川さんにお金を払わないといけないの? 及川さんは僕に気があるんじゃないの? 僕がこうやって時間を割いて、ご馳走もしたというのに」

「私は、いくら欲しいかは言っていません。藤田さんが私にいくらの値を付けられるかを聞いているんです」

「もう及川さんとは話にならない。ここは割り勘でいいから。これ、置いてく。僕は先に帰る」

藤田はマンハッタンを一気に飲み干してから三千円をテーブルに置いて、足音を立てて帰って行った。

 楓はため息をついた。自分が好きでもない相手に、何でただで体を触らせなくてはならないのか、自分の体を何の対価もなしに提供しないといけないという空気がどうして男性によって作り出されるのか、その空気がどうして支配的なものになってしまうのか、彼女は腹立たしく思った。藤田の頭は、ロマンチックな恋愛関係の中で、セックスは無償で提供されるべきものだと刷り込まれていた。だから、きっとそういう雰囲気を無理やり醸し出して、いろいろなものを免除してもらおうとしたのだろう。しかし、楓と藤田はそういった恋愛関係にないし、藤田が作ったその雰囲気は独りよがりなものだった。言い値でいいというのに。藤田は楓の値段すらつけられなかった。もしかして、藤田の残していった三千円が、楓の手に触り、腰に手を回した分の対価だったのかもしれないが。

 こうしてお金が介在すると、男女の関係は一層それがどのような力の不均衡を背後に秘めているか、明らかになる。楓の胸にはぶつけられない怒りと卑屈な思いが入り混じった。男女間で、いや、女性間でも男性間でも権力関係や単純に物理的な力関係が介在する中で、楓はせめて金銭を媒介にする時くらい平等でありたいと願っていた。しかし、実際は、金銭が媒介することで両者のいびつな関係が浮かび上がることになる。男女間の性的な不均衡は、単純に腕力の差だけではなく、あるいは権力の差でもない。そこにはもっと文化的、社会的に深く根差した構造的な差異がある。藤田が潜在的に楓を、女性をどこかで下に見ていて、それに無自覚で、ご馳走をしたらその分、体に触っても許されると思っていたことに対して、楓は次第にお腹の底から湧き上がる怒りを覚えた。藤田のような男性は過去に何人もいた。以前は、こういうことがあっても、楓のお腹には漠然とした不安がうごめき、よく分からない感情の濁流が渦巻くのを感じ、日に日にそれが屈辱感と怒りに変化していった。しかし、それを何度も経験して、最近は相手の男性が抱いている、もしかたら本人もはっきりと気づいていない得体の知れない漠然とした蔑みに対して、楓はぼんやりと不安と怖れを感じ、それらを取り巻くようにして即座に怒りが像を結ぶようになった。

 ダイキリが、楓の心の底に湧きあがり始めた濁りを、ほんの少し浄化した。

 

 真夏のうだるような暑さが和らぎ、かすかに見える星空がキンモクセイの香りで霞む頃、大学同期の森和也からメールが送られてきた。
「楓、
最近どう? 元気にしてる?
仕事があまりにもきつくて、最近会社を辞めました。楓は確か転職経験があるよね。もし良かったら、近々転職の話を聞かせてもらえないかな。それに、他にもいろいろ話したいし。空いている日を教えてもらえたら嬉しい。僕はいつでも暇だから、スケジュールは楓にあわせられます。よろしくー!

和也」

 楓はある金曜の夜、会社の近くのイタリアンレストランに和也といた。
「和也君と最後に会ったのってもう一年以上前じゃない?」
「あの時は浩君と未来ちゃんと一緒だったよね」
「そうそう。みんな奇跡的にぽっかり予定が空いていたのよね。またみんなで会いたいね! ところで、あの時も仕事かなり大変そうだったけど、さらにきつくなっちゃったの?」
「そうなんだよ。終電で帰れないなんてざらで、新規プロジェクトのプレッシャーもあって、ついに心身ともにバランスを崩しちゃったんだ。このままだと死ぬと思って、思い切って辞めちゃった。先に転職先見つけてからとも思ったんだけど、今度は転職活動する時間も余裕もなくてさ。僕がいたところはそこそこ有名なコンサル会社じゃない? 多少無職の期間があっても、どっかには通るだろうし、この際だから休みを満喫しようと思って」

近況を人に話すのがほとんど初めてなせいなのか、あるいは心のバランスを崩したせいなのか、和也はいつもより早口で、畳みかけるように一気に話した。和也は相当心身ともに疲れているようで、話す間だけ熱に浮かされたようになり、それ以外では電池が切れたように目がほぼ一点を見つめて動かず、とても怠そうにしていた。
「今度はどんな業種がいいとかあるの?」
「ううん。まだそこまで考えられてないや」
そう言って、和也は喉にビールを流し込んだ。

「それよか、楓の近況を聞かせてよ。最近どうなの? 仕事とプライベートは。彼氏いるの?」

話題の矛先が急に自分の方へ向いて、楓は一瞬戸惑ったが、そうか、今日はまじめな話より楽しく話せるほうが和也にとって良いのだろうなと思い直した。

「そうねえ、仕事の方は相変わらずだよ。最近はそこまで忙しくはないけど、また年末は繁忙期だよ。プライベートも相変わらず。付き合っている人はいないよ」

「そっか。両方相変わらずか」

和也はそう言って少し目じりを下げた。

「楓は学生の頃からあまり恋愛に関心がなさそうだったよね」

「そうだね。今もどうやって関心を持てばいいのか分からないよ。別に人に対して興味がないわけじゃないんだよ。ただ、友達とか、自分の周りの大事な人に対する関心と、特定の男性に対する関心に、私はそんなに大きな差を見出せないんだ」

 食事を終えた二人は、言葉少なに新宿駅の百貨店とつながっている人通りがあまりないテラスを歩いた。和也は急に立ち止まり、楓にキスをした。和也は楓に体を押し付け、楓の舌を追った。楓は、自分の口の中でうごめくぽってりした柔らかい舌を自分の舌で観察した。和也の舌に触れても、自分の舌が熱を持って痺れたり、和也が抱き寄せている腰から力が抜けることもなかった。この舌、好きでもなければ嫌いでもない。楓は和也のなすがままになりながら、そう思った。和也は長いキスを終えて、楓から体を離した。

「今日、この後も一緒に過ごさない?」

かすれた声で和也はそう言った。

「私にいくら払える?」

和也の顔に緊張が走ったが、深呼吸を三回して、真っすぐに楓の目を見た。自分を慰めてくれるかもしれない好きな女となら、金を払ってでも寝たいと思った。

「払うよ……。ちょうど今手元に四万数千円入っている。全部渡す。それでどうだ?」

「うん。分かった」

二人とも一言も発さず、和也は恋人同士のように楓の手を握ってホテルへ向かった。

 楓は、夢中で首筋や胸にキスをしながら服を脱がす和也の頭頂部を見ながら、相手が生理的に気持ち悪くさえなければ、やはりセックスできるものだと思った。楓は気持ち悪いと思った人とはセックスしないし、気持ちが全くない相手からはお金をもらい、自分にとって必要な相手とは何の対価もなくセックスをした。必要な、というのは便利で利用できるという意味ではなくて、自分の人生にとって必要だと直感的に思わされるという意味だ。楓はセックスの何が特別なのか分からなかった。この社会で、いつからセックスが特別なものになったのだろうか、楓は不思議に思った。

「はい、これ」

和也は四万三千円を楓に手渡した。

「また会えるかな?」

「うん。たぶん」

ホテルを出て、駅へと向かいながら、和也は再び楓の手を握ろうとした。しかし、それに気づかないふりをし、楓は持っているバッグを和也がいる側の手に持ち直した。

 

一週間後の土曜日、二人は再び会った。前回とは打って変わって、和也は目に輝きを取り戻し、そして楓に対して妙に馴れ馴れしくなっていた。

「行こうか」

そう言って二人は表現主義絵画の特別展を開催している美術館へ向かった。美術館に入ると、そこにはたくさんの人がいて、熱気がこもっていた。絵画の前へ前へと出ようとする人もいれば、流れに飲み込まれないようにして遠巻きに見ようとする人もいた。額のガラス越しでしか見ることのできない絵には、わしゃわしゃとした人々の姿が映っていて、絵画を見ているつもりが、気付くとガラスに反射した人ごみの方に目の焦点が合っているということが何度かあった。展示も終盤に来たころ、混雑に紛れて、和也は楓の腰に手を回した。楓はさりげなく和也の手から逃れたが、館内が混んでいたためにすぐにその手に捕えられてしまった。二度、三度と和也に捕まり、その手から身を引き離すということを繰り返しながら、最後に飾られていたカンディンスキーのインプレッシオン、インプロヴィザティオーン、コンポジシオンの三つのプロセスを題した絵画を鑑賞した。

「ねえ。私に触らないでくれる?」

美術館を出てから、楓はそう言った。

「え? 触らないでって?」

和也は、楓とのたった一回のセックス、それも金銭という対価を払ってのセックスで、楓の人格まで買えたと思っていたようだった。和也は、恋愛や風俗でありがちな、相手を所有できるという思い上がりをしていた。しかも、楓は和也の恋人ではなかった。せっかくお金を介在させたのに、楓を丸ごと手に入れたと思っている和也のことを、楓はもともとどこか支配的な人だと感じていた。以前、和也は付き合っていた人に、「彼女に~させる」という言い回しをよく使っていた。それが例え体調が悪くなってしまった彼女を「家に帰して(・・)休ませた(・・)」のだとしても、思いやりの中にどこかしら支配の匂いがしていた。楓との間が、何らかの支配・被支配関係で色づく可能性があったから、楓は二人の間を金銭によって平等にしようとした。お金を支払うということの意味を和也が理解していなかったことに対し、楓は苛立った。一方、和也もまた楓を思い通りにできないことに対して苛立っていた。和也は楓から、どのような形であれ癒しと慰めを得られると思い、楓にすがっていた。和也は楓のことを手放せなかった。

「楓は来週の土日はどう過ごす予定?」

「ううん。特に決まってない。たぶん、溜まっている家事をして過ごすと思う」

「来週末もどっかへ遊びに行かない?」

「来週末はやめとくよ」

「え?でも空いてるんでしょ?」

「たしかに空いてはいるけれど、一人で過ごしたいの」

「じゃあ、金曜の夜は?」

「もう友達と約束があるんだ」

「どんな友達なの?」

「会社の友達」

「それって女性?男性?」

楓は、和也があまりにもしつこく自分のことを知ろうとし、知ることによって支配しようとしてくるのに辟易した。

 

 楓は、浩と未来、そして和也とまた四人で食事をすることになった。和也とは距離を取りたかったが、浩と未来とは会いたかったし、彼ら二人がいれば大丈夫な気がして、久しぶりの集まりに参加することにした。

ほどなくして、楓はここへ来たことを後悔した。和也は楓に対する支配欲を隠そうとしなかった。楓が四人テーブルで和也の隣に座ったら、楓の椅子の背もたれに肩を抱くようにして和也は腕を伸ばしてきた。

「わあ、今日はやけに二人、仲良さそうじゃん」

浩の茶化しに対して、楓は和也が返事をするよりも早く、

「いやいや、何もないから。ちょっとお、手どかしてよ。紛らわしいじゃない」

と早口で言って、和也の手をどかさせた。

 

 和也の楓に対する執着心はものすごかった。四人で食事へ行ったあと、和也から多くの着信やメールがあった。その内容はたいがい、和也自身、そして身内、特に和也の母親に関する不幸を嘆くものだった。和也は、相手のことをこれ以上知ることができないというのが薄々分かってから、今度は自分の事を相手に知らせる方に移行し、同情心を煽り立てて注意を引こうとした。しかし、楓がそれらをことごとく無視し続けていると、今度は会社から帰宅する楓の後をひたすらつけるようになった。